2016年3月11日金曜日

自分の代弁者としての「事実」

自分が正しいと思うことがちょっとでも伝わる時の瞬間は、仕事でブレークスルーがあったときと似ている

アジア人はなめられがちである。被害妄想と言われようと、絶対そうである。加えて女性であり、かつ本来の年齢より若く見られることが多く、クラスメートも年上が多い。英語も拙い。だから、なめられるのはもう仕方がないのであって、受け入れるしかないのだ。そこをベースラインにして、もがくしかない。

だからって、やっぱりいっちょまえに「いら」とすることは多い。「おいおい、だからさ。。。(レベル感ばらばらやで、優先順位明らかにおかしいで、そもそも一歩引いてゴールはなんやったか覚えとる?)」と言ってしまいそうなことがかなりの頻度で起きている。いったことが額面で受け取ってもらえない。正しいと思うことが、正しい、で伝わらない。伝わらない。伝わらない。

かといって諦める訳にもいかないので、あの手この手で頑張っている。伝え方をかえる、オブラートに包んで見る、オブラートを忘れて直球で入れてみる、褒めてみる、突き放してみる、外堀を先に埋めてみる、外堀を忘れ去って本丸をいきなり攻めてみる。。思いつく限り本当に色々実験した。はたから見ると性格が七変化しているように見えるかも。。

ところがある時、ちょっとした発見があった。brainstormingの過程で、過去のデータを使った簡単な分析を申し出た。というか、なんで誰もやってないの?という単純なデータ。3分もかからない分析。そこから見えてくる、事実。ファクトベースという懐かしい言葉が頭をよぎった。一部の人しか分かっていなかった事実・感覚的に理解されていた事象が、全員に可視化され共有される感覚。議論の足が地面に着く感覚。そこから生まれる意味合い、action。ああ、こういう世界から来たよな、と久しぶりに思い出した。

個人的なメールで私宛に数通「本当に助かった」とチームからメッセージが来た。それは、データという武器を初めて手に入れて、クライアントと話しをした時の感覚と似ている。自分の声を「事実」が代弁して話してくれて、それに価値を感じる人がいた。「事実」の持つ力とそれを見極めて伝える力。今回は一切大したことじゃなかったけど、どれが欠けても伝わらない、という当たり前のことを改めて思い出した。

かつもがいたからこそ、その価値をより大きく受け止めることができた。会社にいたら、正しいと思うことを正しく伝えたら、ほぼ100%伝わった。それが拙い英語だろうが女性だろうが年下だろうが、関係なく伝わっただろう。今、それが当たり前でないからこそ、事実の持つ力をより理解し、その使い方により慎重になっている。これは会社にいたら起こらなかったラーニングだったと思うし、この状況はより忠実に世の中を再現しているんだろうな、と思う





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