2017年2月17日金曜日

バークレーで考える言論の自由

最近、あんまり柄にもなく言論の自由に関してよく考える。
 
私の通った京都大学は日本の学生運動の中心地でもあり、言論の自由。。というか自由に非常に敏感だった。デモも多かったし、何か起こる度に張り紙が貼られたりスピーチが起こったり(時に人が半裸で走り回ったり)、正直ちょっと怖かったからなるべく関わらないようにしていたけど、全体としてそう言った校風は嫌いじゃなかった。
 
バークレーは、そんな京都大学と似ているなと思ったのが最初の印象だった。学校選びをしている時、なんかこのごちゃっとした感じがそもそもちょっと似ていると思ったのと(多分公立故の資金不足?)、バークレーも昔学生運動の中心地だったからか、自由と自治に関して非常に敏感な学校だった。よく使う言葉を使ってしまうとフィットということになるんだけど、多分そういうものを感じた、のかもしれない。
 
そんな学校での生活は、事実そう言った側面を実感することが多い。特に新しい大統領が選ばれた後、学校は大変賑やかだ。デモやスピーチ等々、様々な形で、みんな自分の信じることを成し遂げようとしている。そういう校風がやっぱり誇らしいし、なんだか少し自分の学部生時代が懐かしかった。
 
ただ一方で、言論の自由とはなんだろうと考える。確かに デモやスピーチは言論の自由の形の一つではあるんだけど。例えば「あの人、トランプサポーターらしい」みたいな囁きをたまに学内で聞くことがある。例えば少しでも皆が信じるものと「ずれる」コメントをして、一斉に総叩きに合っている人を見る。人々が成し遂げようとしていることに私は賛成しているはずなのに、そう言った風潮に若干今までと同じだけの「同感」ができない私は、ちょっとおかしいのかな。
 
違うものを信じる人もいるかもしれないし、信じるものが同じでもその程度が違う人もいるかもしれない。その人々が声を出すのをためらう雰囲気がやっぱりある。かくいう私も、こんなもやもやを学内で議論できる(心の)準備はあんまりない。それが曲がりにも言論の自由の結果故なら、少し皮肉かもしれないと思ってしまう。

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