Story tellingという授業を受けている。
日曜日2日間にわたって行われる授業なので、正直げーっと思っていた。しかもこういう日曜日に限って、カリフォルニアの抜けるような青空だったりする。うらめしい。リーダーが組織や世界にコミュニケーション(主にプレゼンテーション)をするときに、どうすれば効果的にメッセージを伝えられるのか、という授業だ。受けてみて結構よかったというのが今のところの感想。まだ1日分しか受けていないけど。コミュニケーション系の授業はいっぱいあるし、ある程度受けると何回も聞いたようなことを聞くのであんまり期待していなかったけど、なるほど、なるほど、と思うことが多い。特に、忘れないようにしたいと思ったのが以下
バリエーションが合って初めてオーディエンスを引きつけることができる
バリエーションというのはVocal toneとPaceのことだ。英語がネイティブじゃない人にありがちな「早く喋っちゃう」という癖が、私も例にもれず合った。繰り返し繰り返し、本当に繰り返しそう言ったフィードバックを受けるから、ゆっくり話す、という当たり前の技術を繰り返し繰り返し学び、努力で習得した。するとどうだ、今回の授業では「遅い」というフィードバックを受けるではないか。一瞬ずっこけそうになったが、つまり、メリハリが必要ということなのだ。プレゼンテーションの真ん中は流れるように話してこそ、冒頭やフィナーレでゆっくり話すと「しみる」ということなんだろう。もう一歩上に行けるようなフィードバックだと勝手に解釈して、引き続き精進しよう
「やり辛い」と思ったら新しいことに挑戦している証拠
特に日本人特有のモノトーンな話し方をする私は、「感情の波を感じない」というフィードバックを受けた。そこで同じスピーチを、(なぜか)椅子の上に乗って感情豊かにもう一回するというエクササイズをさせられた。一応感情を入れてみようと努力するんだけど、そうすると頭がそっちばっかりに持って行かれて「何話してたんやっけ」という頭の空白にはまる。「どうやった?」とインストラクターに聞かれて「やり辛い」と言うと、それは新しいことに挑戦している証拠だね、と言われた。仕事では新しいことを思い切ってやるには少しリスクを感じるかもしれないけど、それでも毎日少しずつ新しいことを取り入れるように努力したらいい、と言われた。ぐう、はい。
低い声は、信頼を自然と生む声
これは若干テクニカルなとこだけど、女性の声で信頼できる声はアルトあたりの声域にあるらしい。緊張すると声のトーンが上がるから、これは意識して下げるほうに持って行かなければならない。これは仕事をしている中で経験的に学んだことでもあって、今思い返せばミーティングの前には「声低く!!」とノートの端に書いて、ミーティング中に目に入るようにしていたなあ。プロが言うんだから間違いない。
準備する、でも、準備しすぎない
プレゼンのリハーサルの大切さを学んだのは、MBAに来てからだった。特に自分の母国語でないプレゼンテーションは、リアあるなしでできに圧倒的な差がついてしまう。でも、インストラクター曰く準備しすぎもよくないんだとか。準備しきれていない自分に慣れる、という完璧主義を捨てる勇気。特にビジネスのプレゼンテーションでは、十分に準備できないことだって少なくないから
2017年4月11日火曜日
2017年4月9日日曜日
スイスに行く
エッセイコンテストに入賞して、スイスにただで行けることになった。まさに、棚からぼた餅である(航空券の手配で向こうの不手際があってもめているんやけど。無事行けることを祈る)。スイスでは、エッセイで書いた内容を議論することになる。どうやら日本の元首相も所属するほど由緒ある団体らしく、若干びびってはいるが胸を張って参加することにする。
エッセイコンテストのテーマは"Dillenma of disruption"。そのテーマだったら何に関して書いてもいいよということだった。私は、日本の女性問題に関して書いた。日本の女性進出が叫ばれる中、実際に置いていかれている意識的なギャップ(無意識に起こっている差別)について、アメリカに来て気がついたことが多かった。あれもこれも、差別だったのか、と愕然とした経験が結構ある。そんな憤りを初めて自分の外に表現して、認められたのだから、自分の中では大変意味のあることだった。
一番大きかったのは、コンテストのために書いた、というよりは、これを文章にしてみたかった、ということだった。それほど自分にとって大切な何かができただけ、2年間は有意義だったかもしれないなと思う。にしても、スイスから帰国後すぐに期末テストなので、偉そうにしてこれで卒業できなかったら完全に笑い話である
エッセイコンテストのテーマは"Dillenma of disruption"。そのテーマだったら何に関して書いてもいいよということだった。私は、日本の女性問題に関して書いた。日本の女性進出が叫ばれる中、実際に置いていかれている意識的なギャップ(無意識に起こっている差別)について、アメリカに来て気がついたことが多かった。あれもこれも、差別だったのか、と愕然とした経験が結構ある。そんな憤りを初めて自分の外に表現して、認められたのだから、自分の中では大変意味のあることだった。
一番大きかったのは、コンテストのために書いた、というよりは、これを文章にしてみたかった、ということだった。それほど自分にとって大切な何かができただけ、2年間は有意義だったかもしれないなと思う。にしても、スイスから帰国後すぐに期末テストなので、偉そうにしてこれで卒業できなかったら完全に笑い話である
2017年3月22日水曜日
洗濯室鍵に始まる禅問答
洗濯物を洗濯機に放り込み鍵をかけた後、その鍵を無くすという大事件(アメリカの洗濯機乾燥機は共用であることが多く、アパートの住民は洗濯部屋の鍵を持っている)。こんな狭い部屋のどこになくなるのかと自分の理解しがたい行動にイライラしながら1時間探すが、一向に見つからず。
無意識に日頃の行いを振り返り、「何が祟ったのか。。。」と真剣に悩み始める。大家に連絡するか、でも喧嘩になったらいややな。しかも私の洗濯物が洗濯機の中に放置されていせいでアパートの住民が洗濯できないではないか。。困り果ててやむなくお隣さんにメッセージしたら、快く洗濯部屋鍵を貸してくれた。朗らかに「いやー私もこの前ゴミ箱に間違って捨ててたのよー。ゴミ箱見てみた?」なんて言われて、なんだか一瞬和んだ上に案の定冷蔵庫のミトン掛けに行儀よく掛かっている鍵を発見。
禅問答に始まり忙しい1日であるが、ご近所さんの助けになることなんて冷たい東京の街では無かったから、ちょっと温かい気持ちになった
無意識に日頃の行いを振り返り、「何が祟ったのか。。。」と真剣に悩み始める。大家に連絡するか、でも喧嘩になったらいややな。しかも私の洗濯物が洗濯機の中に放置されていせいでアパートの住民が洗濯できないではないか。。困り果ててやむなくお隣さんにメッセージしたら、快く洗濯部屋鍵を貸してくれた。朗らかに「いやー私もこの前ゴミ箱に間違って捨ててたのよー。ゴミ箱見てみた?」なんて言われて、なんだか一瞬和んだ上に案の定冷蔵庫のミトン掛けに行儀よく掛かっている鍵を発見。
禅問答に始まり忙しい1日であるが、ご近所さんの助けになることなんて冷たい東京の街では無かったから、ちょっと温かい気持ちになった
2017年3月18日土曜日
異常に排他的日本人
「日本人の統一性は異常である」
日本についてMBAの授業で聞くのは稀なことではない。多くの場合は、日本の高度経済成長の要因と、現在の停滞の原因という文脈で聞くことがほとんどである。なので話自体はあんまり盛り上がる感じではなく(あくまでも日本人として)、なんだかすみませんねえという感じで話を聞くことがほとんどである。
そんな中、Business & Public Policyで、またまた似たような文脈で日本が取り上げられた。もはや「はいはい」という感じで聞いていたが、一つ教授が言及した「日本の異常な統一性」に関しては、なるほどなあと思うところがあった。それに関して聞いたのは今回が初めてではないんだけど
教授は日本で仕事をした経験があり、そんな中「排他的」な日本人に驚いたという。外国人に対する扱いは結構ひどいし(アメリカみたいに露骨に差別されるというよりは、どう扱っていいのか分からないので関わりたくないという反応が正しいと思うが)や、「我々日本人」という表現を良く使う、のだそうな。教授は「我々日本人ってなんじゃー!?」と突っ込みを入れていた
アメリカやヨーロッパとの比較にすると、なるほど尚更そうだと思う。日本は島国なので物理的に人種の交配が起こりにくかったし、戦後の一時期を除いて他国に占領されたことのない国である。加えて、戦後の政府の施策やそれに伴った高度経済成長が、「我々日本人」というプライド、今では少し奇妙にすら感じる一体感を生み出していった。一つの言葉を話し、人と違うことに異常に拒否反応を示すあたりも、そういった一体感の側面といえる。ある程度「日本人的な考え方」を私ですら話すことができるのは、ある程度の固定観念にまとめられる何かがあるからなんだろう。これは、きっとアメリカではできないだろうな。一つにまるっとまとめられたら、バークレーあたりがデモを起こすに違いない。
そんな一体感に対して誇らしく思う反面、窮屈に思うのはきっと若い人には多いんだろう。戦後の経済成長のエンジンの一つが今停滞感を生んでいるからこそ、アメリカで感じる「みんな違ってみんな良い」という考えに少し憧れる。隣の田んぼ(日本的)は青いということかもしれないんだけど
日本についてMBAの授業で聞くのは稀なことではない。多くの場合は、日本の高度経済成長の要因と、現在の停滞の原因という文脈で聞くことがほとんどである。なので話自体はあんまり盛り上がる感じではなく(あくまでも日本人として)、なんだかすみませんねえという感じで話を聞くことがほとんどである。
そんな中、Business & Public Policyで、またまた似たような文脈で日本が取り上げられた。もはや「はいはい」という感じで聞いていたが、一つ教授が言及した「日本の異常な統一性」に関しては、なるほどなあと思うところがあった。それに関して聞いたのは今回が初めてではないんだけど
教授は日本で仕事をした経験があり、そんな中「排他的」な日本人に驚いたという。外国人に対する扱いは結構ひどいし(アメリカみたいに露骨に差別されるというよりは、どう扱っていいのか分からないので関わりたくないという反応が正しいと思うが)や、「我々日本人」という表現を良く使う、のだそうな。教授は「我々日本人ってなんじゃー!?」と突っ込みを入れていた
アメリカやヨーロッパとの比較にすると、なるほど尚更そうだと思う。日本は島国なので物理的に人種の交配が起こりにくかったし、戦後の一時期を除いて他国に占領されたことのない国である。加えて、戦後の政府の施策やそれに伴った高度経済成長が、「我々日本人」というプライド、今では少し奇妙にすら感じる一体感を生み出していった。一つの言葉を話し、人と違うことに異常に拒否反応を示すあたりも、そういった一体感の側面といえる。ある程度「日本人的な考え方」を私ですら話すことができるのは、ある程度の固定観念にまとめられる何かがあるからなんだろう。これは、きっとアメリカではできないだろうな。一つにまるっとまとめられたら、バークレーあたりがデモを起こすに違いない。
そんな一体感に対して誇らしく思う反面、窮屈に思うのはきっと若い人には多いんだろう。戦後の経済成長のエンジンの一つが今停滞感を生んでいるからこそ、アメリカで感じる「みんな違ってみんな良い」という考えに少し憧れる。隣の田んぼ(日本的)は青いということかもしれないんだけど
2017年3月1日水曜日
怠け者に対して
自分にも厳しいし、他人にも厳しい
小さい頃から、両親によく言われたことである。本当の意味がわかったのはもう少し大人になってからだった。
基本的に、頭の悪い人が苦手だと思っていた。というと、かなり性格の悪い人に聞こえてしまうんだが(実際そうなのかもしれないが)、これが一体なんなのかの正体が、やっと最近分かってきた。
頭の悪い人全員に苦手意識があるかというとそうでもなくて、それを努力で埋めようとする人は結果がどうであれかなり好感度を持って接している自分に気がついた。多分それは、同族だと思うからだと思う。決して自分は賢く生まれたわけではなかったので、かなり泥臭い努力が何に対しても必要だった(例えば、記憶力が著しく低いので、学生の頃は単語帳を肌身離さず持ち歩くくらいしないと学校の授業に普通についていけないみたいな)
おそらく一番苦手というか嫌悪すら感じるのは、凡人の頭を持った怠け者。チームにたまにいる、凡人なのに「努力しない人」。準備すらしていないのにミーティングに遅れてくるやつ、どう考えてもしっかり自分で考えてないやつ、「なんとかなる」とチームを当てにするやつ、全部、すごい苦手だ。飛び抜けて頭が良くない限り結局そういう人は戦力にならない。戦力にならないから、いなかった人として死体のごとくほっとけばいいやんってそうなんやけど、ここが難しいところだ。自分が人間として完成していないために、こういう人々に対して感じる「いらいら」が結果として自分の生産効率を下げている。
なんでなん???と思う自分が止められない。必要以上に、そういう人々に厳しく当たってしまう自分を止められない。自分だって完全な人間じゃないのはわかっているのに、どうしてここはいつまでも成長しないんだろう。禅の心で、自分のその時すべきことに集中できないだろうか。結局いろんな人の中で働くということは、怠け者を時として避けて通れないわけだから、そんな人と出会った時に、変わらずパフォーマンスを発揮できて、かつ周りの雰囲気を壊さない人にならないといけない
2017年2月28日火曜日
日本人として英語を話すということ
「君は、大部分のアメリカ人よりまともな英語を話すんだから」
もちろん、言語的に、という意味ではなく。そんなことを言ってもらった時に、ふと英語に関して考えたという話である。Art of Coachingという授業で、お互いにコーチングをする練習があるんだが、私がCoachしてもらうトピックとして選んだのは「Socializing skill」だった。以前カナダに留学した時より、よっぽどマシになったとは感じるんだけど、やっぱりアメリカ人の中に一人飛び込むのはちくっとする程度のストレスがある。それがなんなんだろう、と突き詰めて考えた時に、やっぱり英語なのかなあと思わざるを得なかった。
みんなが何を言ってるか分からなくて・・・うぎゃーという時期は、多分大方越えた(たまにあるけど)。じゃあなんで英語なんだというと、母国語だといらない少しの「めんどくささ」が自分を会話の中に放り込むのを少し億劫にする。また、相手も同じくらいの「めんどくささ」を感じているんだろうなあ・・という推測が、その億劫をもう少し強くする。Coachingをしてくれた彼の言葉を借りれば、extrapolate (自分もこうだから、多分相手もこうだろう)しているんだろうと思う。
みたいな話をしていると、彼は「ここ(UC Berkeley)にいるということは、君は大部分のアメリカ人よりまともな英語をはなすんだから」と指摘した。本当に会話を少し億劫にしているのは、英語だろうかと、聞いてきた。結局私の場合、むしろ「完璧主義」のせいなんじゃないか、という仮説に二人でたどり着いた。間違えたくない、無理させたくない、バカだと思われたくない・・みたいな自分で作り出したプレッシャーのせいじゃないかと。
結局、会話で大切なのはそこ(英語)じゃなくて、彼の言う通りその外側にあるんだろうなあ。そしてその外側には、誰かと会話を持つに価する何かを持っているはずなのに、いつもどこかで自分に価値がないと思ってしまう。たかだか20分のCoachingだったけど、色々自分について考える機会をもらった気がした。さすがやなあと思う。
もちろん、言語的に、という意味ではなく。そんなことを言ってもらった時に、ふと英語に関して考えたという話である。Art of Coachingという授業で、お互いにコーチングをする練習があるんだが、私がCoachしてもらうトピックとして選んだのは「Socializing skill」だった。以前カナダに留学した時より、よっぽどマシになったとは感じるんだけど、やっぱりアメリカ人の中に一人飛び込むのはちくっとする程度のストレスがある。それがなんなんだろう、と突き詰めて考えた時に、やっぱり英語なのかなあと思わざるを得なかった。
みんなが何を言ってるか分からなくて・・・うぎゃーという時期は、多分大方越えた(たまにあるけど)。じゃあなんで英語なんだというと、母国語だといらない少しの「めんどくささ」が自分を会話の中に放り込むのを少し億劫にする。また、相手も同じくらいの「めんどくささ」を感じているんだろうなあ・・という推測が、その億劫をもう少し強くする。Coachingをしてくれた彼の言葉を借りれば、extrapolate (自分もこうだから、多分相手もこうだろう)しているんだろうと思う。
みたいな話をしていると、彼は「ここ(UC Berkeley)にいるということは、君は大部分のアメリカ人よりまともな英語をはなすんだから」と指摘した。本当に会話を少し億劫にしているのは、英語だろうかと、聞いてきた。結局私の場合、むしろ「完璧主義」のせいなんじゃないか、という仮説に二人でたどり着いた。間違えたくない、無理させたくない、バカだと思われたくない・・みたいな自分で作り出したプレッシャーのせいじゃないかと。
結局、会話で大切なのはそこ(英語)じゃなくて、彼の言う通りその外側にあるんだろうなあ。そしてその外側には、誰かと会話を持つに価する何かを持っているはずなのに、いつもどこかで自分に価値がないと思ってしまう。たかだか20分のCoachingだったけど、色々自分について考える機会をもらった気がした。さすがやなあと思う。
2017年2月17日金曜日
バークレーで考える言論の自由
最近、あんまり柄にもなく言論の自由に関してよく考える。
私の通った京都大学は日本の学生運動の中心地でもあり、言論の自由。。というか自由に非常に敏感だった。デモも多かったし、何か起こる度に張り紙が貼られたりスピーチが起こったり(時に人が半裸で走り回ったり)、正直ちょっと怖かったからなるべく関わらないようにしていたけど、全体としてそう言った校風は嫌いじゃなかった。
バークレーは、そんな京都大学と似ているなと思ったのが最初の印象だった。学校選びをしている時、なんかこのごちゃっとした感じがそもそもちょっと似ていると思ったのと(多分公立故の資金不足?)、バークレーも昔学生運動の中心地だったからか、自由と自治に関して非常に敏感な学校だった。よく使う言葉を使ってしまうとフィットということになるんだけど、多分そういうものを感じた、のかもしれない。
そんな学校での生活は、事実そう言った側面を実感することが多い。特に新しい大統領が選ばれた後、学校は大変賑やかだ。デモやスピーチ等々、様々な形で、みんな自分の信じることを成し遂げようとしている。そういう校風がやっぱり誇らしいし、なんだか少し自分の学部生時代が懐かしかった。
ただ一方で、言論の自由とはなんだろうと考える。確かに デモやスピーチは言論の自由の形の一つではあるんだけど。例えば「あの人、トランプサポーターらしい」みたいな囁きをたまに学内で聞くことがある。例えば少しでも皆が信じるものと「ずれる」コメントをして、一斉に総叩きに合っている人を見る。人々が成し遂げようとしていることに私は賛成しているはずなのに、そう言った風潮に若干今までと同じだけの「同感」ができない私は、ちょっとおかしいのかな。
違うものを信じる人もいるかもしれないし、信じるものが同じでもその程度が違う人もいるかもしれない。その人々が声を出すのをためらう雰囲気がやっぱりある。かくいう私も、こんなもやもやを学内で議論できる(心の)準備はあんまりない。それが曲がりにも言論の自由の結果故なら、少し皮肉かもしれないと思ってしまう。
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