2016年12月31日土曜日

秋学期を終えて。達成未達は来年持ち越し

投げつけるように最終論文(論文と言えるほどの物ではないけど)を叩きつけ(メールやけど)、これを持って秋学期が終わった。本当に、あっという間に月がころころと変わって、気がつけば12月。今年が終わろうとしている。マイアミで迎えた新年から、早くも一年が経とうとしている。新年の目標はかなり残念な達成状況である。ただ、一年を通して目標を忘れなかったのは初めてだ(だからどうというわけではないんやけど)。一方、自己満足として忘れないうちに、なにを勉強したか書き残しておくことにした。

1) アメリカの社会問題に関する理解が深まった
アメリカのHealth Careに関する授業、Social Movementに関する授業、Genderに関する授業等々、色々今アメリカでホットな話題に関連する授業を(図らずして)たくさん受講した。そういう授業にはそういった方面に関心が高い人が集まるので、議論を聞いているだけでも大変勉強になった。ただ、みんなめちゃくちゃ関心があるので議論の質は高く、かつ難易度は結構高かった気がする。

Health Careに至っては「オバマケアってそもそも何?」みたいな私が混ざるには恐れ多い授業だったが、授業が終わる頃にはアメリカの複雑かつ非効率なHealthcareに関して一丁前に語れる程度に知識がついた。Social Movementは、最近のBlack lives matterのような社会運動が何に起因して起こるのか(=Social Movementを起こすには何をすればいいのか)ということを延々と語る授業だった。実用性は別として、その整理の方法に関心した。Genderの授業においては最初から最後まで疑心暗鬼いっぱいで聞いていたが、事実としての女性活用の現状に関して、非常に知識が深まった。

2) 自分に関してよくよく学んだ
Negotiationとか、上の授業も含めて、自分とは一体どういう人なのかをよく学んだ。争いごとが嫌いというより苦手(負けてはいけない・・・!という負けず嫌いから来るものすごいストレス)、とか、そもそも何に興味があるのか、とか。結局何に興味があるのか、よりも何に興味がないのか、ということの方が理解が深まった気がして、それでいいのかどうかは謎何だけど、まあいいやということにした。

3)それも含めてとりあえず2-3年計画が決まった
結局、10年先の自分が何をしているのかはよくわかんない。でも、これをすればわくわくするんじゃないかなというのは、前よりよく分かった。したがって、とりあえず目下2-3年何をしたいかが決まったので、それはよかったな。2年もモラトリアム過ごして、2-3年先のことしかわからんのかいとお叱りを受けそうだが、それすら難しかったんだから勘弁してほしい。

最後の一学期は、惰性で過ごさずに楽しもう。何をしても遅すぎることはない、とは学生時代のインターン時に学んだことである。新しい人と会って、興味のあることに首を突っ込んで、それがすぐに芽が出ないものでも、10年後にまたひょんなことから再開することかもしれないから。来年は、今年の未達目標も踏まえて、懲りずに目標設定しよう

2016年12月6日火曜日

ボードゲーム

日本でボードゲームといえば人生ゲームくらいかもしれないが、アメリカには相当の種類のボードゲームがある

しかも、多くのゲームが完全に大人向けだ。どれもルールがかなり複雑で、しかも人間の心理をついたゲームが多い。日本で人狼ゲームが人気になったが、これはアメリカのMafiaというゲームを日本語にしたものである。そして、Mafiaの進化版ボードゲームがいろいろと存在する。



日本でもこういうボードゲームもうちょっと人気にならないかなあと思う。日本人は集まると飲むか食べるかしかしない印象だけど、みんなでゲームしてわいわいしてもいいんじゃないかなあ。でも、日本の家は狭いことが多いから、大勢で集まってゲームするのが難しいのかな。

2016年11月30日水曜日

アメリカに興味ない

MBA二年生の授業の半分が終わろうとしている。時間が経つのは早いもので、この学期が終わると私の留学はほぼ終了する。ここにきて、何を学ぶのかはとても迷う。自分はアントレ系には興味がないし、ファイナンスにも興味がない。かといって、ソフトスキル系ばかりとるのも何か間違っている気がするし、そもそも長期的に何がしたいのかによるやんってそれもはっきり分かっている訳でもない。

でもここにきて、幾つか将来について前より分かってきたことがある。それは、MBAといういわば人工的な「時間」によって考えることができたのと、インターンシップという全く違う環境で働く機会ができたことは、やっぱりありがたかったのかもしれない。

やっぱりアメリカに根本的に興味ない。2年過ごしてそれってどういう。。。と自分にきつめに突っ込んでしまいそうだが、冷静に考えて多分そう。誤解を恐れずにいうと、アメリカすごいとは思う。まず(本当に)でかいし、人種がそもそも多様というアジアではなかなか見ないチャレンジとか、ビジネスチャンスとか、いろんな角度からじわじわくる。それも含めてアメリカという国が持つ他国にはない要素を面白いと思うかどうかは、人によって違うかもしれない。私もアメリカの抱える課題とかビジネスチャンスとか面白いと思うけど、根本のところで本当の意味で共感できてない。この課題、解きたい!と思えない。そういったことに興味のある人々と積極的につるんだり、授業を積極的にとったり、集まりに参加したりできることは結構したが、やっぱり根本的に興味ないんだろうな、という結論に最近至った。やっぱり、アジアの方が圧倒的に面白い。市場の予測不能さ、前向きさ、勢い、(食べ物)、国と国との切磋琢磨感に加えたその規模は、どの文脈で出てきてもどきどきする。そういった直感に従うのも若いうちは悪くないかなあと思う。多分、中期的にはアジアの進出戦略とかに携われたらいいなあと思っている

多くのクラスメートがアメリカに残ろうと努力しているので、アメリカで出たオファーを蹴って日本に帰る私を気味悪そうにみる人がいるが、やっぱりそれなりに腹落ち感があったからいいんやろ、と思っている

2016年11月16日水曜日

コーヒーショップにて瞑想:自分のペースのコントロール

お気に入りのコーヒーショップがあるかどうかで、人生の豊かさが変わったりする。

と最近本気で思っている。特にコーヒーがすごい好きなわけではないが、店に入った瞬間に座る場所に迷わない(常にこの席がいいと決まっている)というコーヒーショップがあることが、家以外の安心感を与えてくれたりする。

特にバークレーではそれが重要で、私のパートナーは仕事が遅いので深夜まで家には誰もいない。かつ、バークレーは店が大体9時くらいに閉まるので、外でふらふらすることもできない。となると、生活が常に学校と家の往復になりがち。東京の港区に住んでいた身にすると、家にいることがほとんどなかったので、息がつまる。

そういったコーヒーショップで朝早くから課題をこなすなり、メールに返信するなり、文章を書いたりすることが、瞑想と同じくらいの効果をもたらしている。学校の席に座った時に頭がすっきりしていたり、ちょっと前向きだったり、そうすると相乗効果で、思ったことが口にできたりおしゃべりを楽しめたりする。
ただふと立ち止まって考えると、多分コーヒーショップとかじゃなくてもいいんだろうなと思う。それがお寺でも、一人カラオケでも、一人になって自分に向かって話ができる環境が生活の中に少しあれば、いろんな雑音に惑わされた自分のペースをもう一度軌道に乗せることができるんかな。もはや、考え方は座禅に近い。

2016年11月10日木曜日

大統領選挙を終えて

ここカリフォルニアで体験した選挙一連の空気は、残しておきたいと思ったんです。特に、日本にいる人が何を考えているのか、とても気になります。

昨日皆で開票を見るまで、私は普通にヒラリーが勝つと思っていました。なぜなら、トランプが何もわかっていないは、彼の話を30分ほど聞けばほぼ丸分かりだから。こんなひとを、人々が選ぶはずがない、と信じていました。事前のサーベイでも、ほぼヒラリーの勝利は確実に見えました。加えて、私の周りの人は、様々な角度から、なぜヒラリーが勝つのかを説明してくれました。「圧勝ではないけど、まあ負けないよね」という、暗黙の了解みたいなものが、私の周りには漂っていました。そんな空気が、1年前くらいから続いていたから。

私の友人の多くが、キャンパス内にテーブルを出して選挙登録をし、また多くがリノ(Nevada州)まで遠征して、人々のドアをノックして回りました。前日には、Swing Stateと呼ばれる接戦が予想される州に電話をかけて、投票を促していました。多くの人が、昨日を待ち望んで、またアメリカで初の女性大統領を待ち望んでいました

そして、開票は学校のクラスメート100人弱で、ダウンタウンのスポーツバーでみました。私は授業があったので、4時開始のところ、6時頃に到着。遅れる旨伝えると、「それまでには終わってるかもしれないよ(ヒラリーがKey Stateで勝った場合)」と、本当に言われました。私も、そうかもしれないと本気で思っていました。

だから、スポーツバーに到着した時、ふと見上げたスクリーンが真っ赤(トランプ優勢州の色)だった時、「え?」と目を疑いました。もちろん、アメリカの真ん中の州はElectoral Voteの数が少ないのですぐにトランプが勝つわけではないのですが、私が予想してた場の盛り上がりみたいなものが、全くありませんでした。お酒大好きおしゃべり大好きなMBAの生徒の多くが、静かにスクリーンを見上げていました。

「この州さえ勝てば、大丈夫」と、政治クラブの友人に言われました。負けるはずない、なのに、こんな接戦になるなんて、と皆驚いている様子でした。そして、North Carolina州でトランプの勝利が決まった時、「まずいかも」と近くに座っていた友人が初めてつぶやきました。

開票が進めば進むほど、トランプの勝利が近くなっていくように見えました。「もう、帰る」とリノに遠征まで行った友人が言い出したので、車を呼びました。もう一人の友人は「こんなの、間違ってる!」と、床に泣き崩れ落ちていました。最終結果は、自宅のインターネット開票結果を30秒ごとにリフレッシュして、みました。自分が見ているものがにわかに信じづらかった。

カリフォルニアはもちろん圧勝でした。そして、私はそのカリフォルニアにいながら、アメリカという国で何が起きているのか、しっかりと理解できていなかった。もちろんSupreme Court のアサインメントという要素は保守派の方々には大きいらしいのですが、それでもこんなにも多くの人が、政府をもう信じることができなくて、裏切られたと感じていることに、単純にショックを受けました。同じ国なのに、ここまではっきりと違う見方を持っている人がいて、また、それがすごく悲しいことに思えました。また、彼女が女性だから信じられないという人がやはりかなりいたということにも、同じくらいショックを受けました。

校長から、生徒全員に慰めのメールが届きました。また、私のパートナーのオフィスでは、「今日は皆色々感情的になっているかと思うから、適切と思えば自宅勤務するように」と通達が来たようです。学校に来てからも、全体にピリピリした空気が流れていて、特に熱心に選挙活動をしていた人々は完全に爆発寸前の腫れ物でした。周りの人に当たり散らしている人もいました。これから、何が起こるんだろうと、単純に不安。そしてそれはアメリカ人だけじゃなくて、日本も同じ。日本にいる人は、どんな気持ちで選挙を見たんだろうと、気になりました。

2016年10月28日金曜日

苦手な人

と仕事をすることになりました。

なんでそうなってしまったのかはさておき、これは結構重要な経験になるのではないかと勝手に思っている。人という要素が仕事をする上で自分にとってどれくらい大切かは結構はっきり分かっているので、今回の経験が結構大変なものになるのは折り紙付き(?)だ。

まず、なんでこの人苦手だと思うのか。まず、結構感情に任せてがーっと話すひとは結構嫌いである。理由を言っても通じないし、そもそも感情的になっているのでほぼ聞いていない。したがって、私の目から見た議論の効率性はそこに存在せず、かなりストレスフルな状況になりがち。加えて、この人は今回の課題に以前から興味があって知識があるので、独断で議論をコントロールする(=他の人に耳を貸さない)ことになりそう。さらに、忙しいから仕事はできない(!)という自分勝手ぶりである。おそらく、この人のこういった正確に加えて、自分持ち前の正義感が「ふざけんな」という感情を生んでいて、自体をより複雑な方向に持って行きそう、な気がしている。

その中で、どうやって確執を起こさずに意味のある仕事をするのか、には大変意味のある学びがある気がしている。自分が「こいつ。。。」と思っている空気はきっと伝わる。伝わったらきっと物事が進みにくくなる。いかにプロとして、必要な議論をスムーズに起こせるのかは、腕の見せ所というか学びどころだ。


とりあえず、「一緒に仕事できて嬉しい!」という空気を出しておいた。さてさて、自分をどれくらい上手にコントロールできるのか、できなかったとしたら、どうしてできなかったのかどうしたらできるのかを考える、いい機会にしよう。自分の好きな人としか仕事をしないなんて贅沢、将来絶対できるわけないんだから。

2016年10月27日木曜日

期待値からの引き算

アメリカ(外国)にいるということが結構ストレッチなのだということを、たまに忘れてしまう。

それに、急に気がつく瞬間が幾つかある。例えば、授業でうまくできなかった時に、かなり凹む。上手くできないというのは、日本だったらこれくらいできるはずなのに、こんだけしかでけてへん、という差を圧倒的に知る時。また、「今絶対アホやと思われた」というような、自尊心を傷つけられた時。その時の、気持ちの降下速度が凄いから、自分でもおいおいどうした、と思ってしまう。

一つには、自分はアメリカに結構慣れて、現地人に負けないぞなどという謎の自負みたいなものができてきていて、それが幻想だということに気がつくたびに凹む。また、こんなことではアメリカに来た意味がないではないか!!という自分の期待に対する不甲斐なさに凹む。

来たばかりのころは、0に対するできた分だけ+αだったので、いつも足し算のお祭り騒ぎだった。今はある程度期待値が自分の中でできてしまったので、期待値10に対するできなかった時の引き算なのだ。それは、確かに凹む。

小さい成功を積み重ねて期待値ができたことは、良いことだと思う。期待値に対して自分の不甲斐なさを感じるのは、そこにたどり着きたいという気持ちがあるということで、多分悪いことではない。ただ、凹んでばかりいると本末転倒なので、気軽に行き過ぎるくらいで多分丁度いい。



2016年10月18日火曜日

Negotiationの授業にて、自分を学ぶ旅

 MBAの授業っぽい授業の一つにNegotiationという授業がある。言葉の通り、交渉術に関して学ぶ授業だ。「交渉」と聞くとぐっと身構えてしまうし、そもそもそれが好きな人はあんまりいない、と思う。でもそれも含めて、交渉に関して学ぶ。「宇宙科学ではないのだ」と先生が言うように、こつとか、心構えとか、学ぶことが多い。

でもまあ難しいよね。特に最初のほうの授業はひどかった。まず、衝突が嫌いという自分の性格をよくよく学んだ。相手が求めてくる価格なり条件なりで、自分がある程度満足できるならそれ以上行こうとはそうそう思わない。また、相手との見解と自分の見解が違うと、多分うちがとんでもないことを言ってるな、と自動的に思っている。結果として、相手にコテンパンにやられていっつも下位10%という状態が続いていた。しかも、相手が得た価値と私の得た価値を合計すると、他のペアに劣る(=二人で協力して価値の最大化ができていない)という救いようのない状態である。まあ人間なので、結構凹む。

でも、毎週とぼとぼと家に帰っていく中で、やり方は少しずつ変わってきた。まず、準備をしっかりするようになった。その際に、いくつかシナリオを準備しておく。価格を妥協するなら、こっちの条件は譲れないとか。また、リミットも作っておく。ここまでなら妥協できるけど、これ以上は無理、と、相手が提示する条件に対して素早く対応できるようにしておく。また自分の論点はどこなのかを整理して(=どのようなカードをどの順番で出すのか)、相手に反対されてもすぐに別の手を見せることをやめ、反対された瞬間に会話することを怖がらないように注意した。そしてその上にあるのは、なによりの「自信」。準備がしっかりできていると、自分はふざけたこといってないぞと、もうちょっと胸を張っていうことができる。

そうしていると、結果もだんだん変わってきた。まず、自分は下位でなくなってきた。かつ、以前やりがちだった「どうしよかなあ。。」という議論中のなぞの空白がなくなった。それが原因で自信がないように見えることも少なくなった(はず)。相手が準備不足だったということももちろんあるが、それも含めて、自分のペースで会話ができるようになってきた。特に今日は、相手がかなり強気で始めてきたのにもかかわらず、最終的には完全にこっちのペースで進めることができた。決め手は、シナリオを事前に作っておいて、それに対してしっかりとしたストーリーをつくり、相手が反対したからって簡単に諦めなかったこと。アメリカ人の男性相手(=怖い、英語早い)にここまでできるようになったのは、ちょっと褒めてあげてもいい。

交渉していること自体が、自分の性格上少しストレッチである。でもその上で、交渉に向かう心構えみたいなことを学べること、かつ、交渉という事象をかなり客観的に見る機会があるのは、かなりありがたいと思う。もう数回残っているので、この先またコテンパンにされても、めげずに学んで帰ろう


2016年10月13日木曜日

つらたん

自分で選んだことなのに、なんでつらいんだろう

という話を、あるコーヒーチャットを一緒にした女性に聞いて、「なるほどなー」となった。結構最近「つらたん。。。(古)」となってることが多い気がした。些細なことから重なるストレスとか、本来こうあるべき、に対する自分の情けなさとか、そもそもやっぱ英語って疲れるよね、とか、あれとか、これとか、とくにこれっていう原因はないんだけど、それこそ一気に疲れがきて、なぜだか右の肩が外れそうになった。

そもそも、学校というのは自分で選んで来るところなんだから、する事なす事自分が選んだことのはずなんだ。だから、ストレスとか感じる理由一切ない、はず。この世の夏休み、のはず。なのに、いつからそんな事を忘れて、なんだか「やらされてる」みたいな錯覚に陥ったんだろう。

そう考えると、仕事だってそうで、いろいろ考えて選んだ結果そこにいるはずなのに、いつの頃からか「誰かに無理やりやらされている」錯覚に陥る事が多かったかもしれない。

後で「なんであの時つらたんになったんやろう」とばかばかしく思えるのは目に見えているので、自分が選んだことにいちいちストレスを感じながら日々を過ごすのをやめよう。

人をManageするということ:まだまだ長い道のり。。

クラブのPresidentなんかをやっていると、いろんなことを学ぶ。とくに、People Managementの面で学ぶことは多い。いろんな人からあれはこうしたらとかこれをこうしたらとかリクエストが集まって来るし、違う意見を持ってる人はもちろんいるし(全員を幸せにはできない、というのが前提)扱っている人々の能力にも違いがある。そこにはいろいろ衝突があって、「まじふざけんなよ馬鹿野郎」と思う瞬間は結構あるのだが、そこを含めて自分のコントロールを学んでいる気がする。まだ発展途上だが。

特に今日、その一つがあった。私の一つ下のVPの一人が、どうしても本来やるべき仕事をしない。私はというとやきもきしていて、「がー自分でやった方が早い」というマインドになりかけていたが、「いかん。。それするとすぐになんでも自分でするようになる」と自分を戒める(そこは前より進歩)。なるべく彼女に委ね、彼女の裁量権を維持したままで、最低限の指示だけ出して、煮えたぎる気持ちでことが進むのを待っていた。だが、ちょっと我慢できないくらい遅い。自分だったら1時間でできることに、2週間掛かっている。いよいよやばいなとなった時に、「ちょっと座って話しよう」と持ちかけた。彼女も何かやばいのはわかっていて、緊張した面持ちで会いに来た。怒り心頭になる気持ちをぐぐっと堪え、決して彼女を責めるな、責めるな、と何回も心の中で自分に説き、「どうすればやりやすい?」と尋ねてみた。

そこで出てきた彼女からの不満と言ったら。。待ってましたとばかりにぶわーと出てきた。それに対して、「甘えたこというな!わからなかったら自分から聞け!あって話したいなら自分から言え!」と思うスパルタな私と、「まあ、確かに任せすぎたかもね。」と冷静に反省する自分とがせめぎ合っていた。多分昔の私なら彼女の言ったことは言語道断だった。自分が任されたことは自分で責任を持って、必要と思う助けは自分で得ようとするのが常識であり、それをいかに効果的にするかも自分の責任だ。それができないなら言われたことを右から左にこなす機械である。しかしながら、人には違うレベルの問題解決能力があって、自分がこうあるべきを彼女に求めるのは少し勝手だった。彼女の能力と、性格と、どうしたら安心して仕事ができるのかを、リーダーとして判断すべきだった。人は時に、1から10まで知ったほうが落ち着いて仕事ができて、時にばくっと任されたほうがわくわくする。自分が後者だからって、みーんなそうでしょ!と判断するのは勝手だった。

やっぱり自分は人にも自分にもまだ厳しいよね、いやーまだまだだな、と思いつつ、今回は冷静に自分を判断している自分を議論中に感じた。若干怒りが暴走しそうになった時もあったが、そこはぐっと自分を引き止め(怒りを全て言葉にしない。こうあるべきという正論をぶつけない)、その感情に蓋をして、前に進むために必要な議論に集中した。ただ、早急に答えを求めすぎた感もあって、もうちょっと落ち着いて彼女の膿を先に全部出したほうがよかったかもしれない。それこそ「もうない」と彼女が思うまで、好き放題言わせてよかったかもな。そこはまだ自分の未熟さもあって、「これ以上意味ない」と私が思った時点で止めてしまった。言っているうちに思考が整理されることは自分の経験からも知っているので、意識的に喋らせるということを、もっとできるようにならないといけない。それは今後の課題かな。

なんにせよ、貴重な機会だった。いろんな人をManageするようになるのは、きっと遠くない。その時に、犯してはいけない間違いを、先にできたということで、感謝しておこう

2016年9月27日火曜日

アメリカ大統領選挙:ディベート

アメリカの政治はなんだかコメディーショーみたいである。

アメリカ国民ではないので別に選挙権を持っているわけではもちろんないんやけど、周りが盛り上がっているからアメリカの大統領選挙関連のイベントにはたまに出たりする。こっちに来た頃はそれこそ「大統領選??それって誰でも出れるの?」っていう状態だったけど、あまりにも周りが話すのでそれなりに基本的なことや選挙の仕組みも前より分かって、これがどれくらい大事な話なのかも前よりは分かってきた、はず

そして、今日遂にヒラリーとトランプのディベートがあった。学校でPolicy Club 主催のDebate Watchがあったので、50人ほどのクラスメートと一緒に、二人のディベートを見た。

正直、トランプは何言っているかわからなかった。同じことを何回も繰り返して(e.g., シカゴではxxx人毎年銃で死んでるんだよ!っておそらく1分に3回くらい言ってた)しかも、質問に答えていたかと思ったら、全く違う話をいつの間にかしている。堪忍袋が短い私は、これを友人にされたら若干切れそうである。ほぼ、トランプが話していた印象で、なんだか子供の喧嘩みたいだった。

なるほど、この人が大統領になったら大変ですね、と他人事の様に思っていたけど、かといってヒラリーが何をするのかよくわかった訳じゃなかった。でも、なんだか「圧倒的にトランプよりまし」という印象だ。「まし」な人が大統領になって、いいんか。。と他人事なのにちょっと不安になる。いや、アメリカの大統領なんだから、他人事とか言ってる場合じゃないな。でも、オバマの後に大統領するって、きっと大変やろうな

そもそも私のアメリカの政治知識はほとんどないしそもそもそれほど熱心に勉強した訳ではないので、知っている人が見たら今日の印象が変わるんだろうか。でも、日本みたいに「誰が総理大臣になっても一緒だよー」というやわっとした諦めに似た空気ではなく「やばい」という切迫感がアメリカの選挙にはある。メディアでも圧倒的に取り上げるし、そもそもアメリカ人が政治の話するの好きっていうのもあるだろうし、でもこの政治に対する切迫感は今の日本にちょっとあってもいいかもしれない。

西海岸という特殊な場所がもたらしていることかもしれないけど。トランプ好きって言ったら袋叩きにあいそうな雰囲気が校内にもある。ディベート中にトランプがちょっとバカなこと言った後の爆笑嘲笑がすごすぎて、(きっといるはずの)トランプ支持者はどんな気持ちでここの空気吸ってんだろうと、ちょっとかわいそうになったりもした

2016年9月23日金曜日

ミニレース

ミニマラソンに参加してみた。

参加してみた、といったら殴られそうである。なんせ5キロ程度の超超ミニレースだった。でもゼッケンとかもらって、表彰式とかもあると、普段ジムで走る距離と大して変わらないはずなのに、走った後の達成感はそれなりにあったりした。

距離が短いからか、参加者は本当にいろんな人がいた。それこそ、5歳ぐらいの男の子から、ベビーカー押しながら走っている人とか、おばあさんとか、誰かと一緒に走るってやっぱり楽しいなあ

あと、ゴールラインに近づく人を、レースが終わった人が応援している様子はなんだかとってもよかった。スポーツは人を近づけるよね

2016年9月15日木曜日

そんな時期

自分の将来について考えることが、増える時期になっている。周りがまずざわついている。一番簡単な人は、夏のインターンシップでもらったオファーにサインするという形で、MBA後の進路を決める。同僚も、違うオフィスにトランスファーを出したり、本国に帰る決意をしたり、着々とそれぞれ答えを出しているように、見える。

私はというと、とても中途半端なところでふわふわしている。帰るのもいいけど、それがしっくりきていない自分もいる。方や夏の米国インターンではきちんとオファーを頂き、なんなら以前の会社よりよっぽどよい給料で、ワークライフバランスも確保しながらアメリカにて働くことが可能だ。

時に、人は与えられすぎると、訳が分からなくなってしまう。自分にとって何が大切なのか、わからない。そもそもここに来て、行き当たりばったりのキャリアを積んできたような気がしてならない。完璧な仕事など、ない。充実している!と自分の仕事を語るひとも、「またまたー」と聞いている自分はなかなかひねくれていると思う。

周りがざわついているから、その声にいちいち動揺しがちである。流されずに、自分のしたいことをじっくり考えるにはどうしたら良いのか。。

2016年9月3日土曜日

七転び八起きならぬ転びすぎ

新しい学期が始まって、早くも2週間目が終わろうとしている。恐ろしい。いろいろ迷った結果、今学期はほどほどに頑張ることにしたものの、昨年果敢に挑戦した金融系の授業は取らないことにした。一応見学に入ったんやけど、明らかに私の求めるレベルを超えて投資家にでもなろうかという授業だったので、もういいかなと。


今学期は、アメリカに関する授業が多くなった気がする。中でも、Social movementという授業は結構面白くて、「どういう条件が揃えば、アパルトヘイト撤回みたいな大きな社会活動が起こるのか」ということに焦点を当てていろいろなケースを学習する。もちろんアメリカで起こった社会現象が中心になるので、事前知識が現地人より圧倒的に足りないんやけど、そこはなんとか頑張ってついていくことにしよう。学期終了までに次の一大ムーブメントが予測できるのが目標です。ほんまか

卒業後、気持ちはやや日本に帰る方に傾いている。やっぱり、根本的にアメリカに興味がない。もちろん、学習環境としては素晴らしいんだけど、市場としてアジアみたいにぐいぐい伸びていないし、そして意外にもなかなか共感しにくい社会問題が多い。人種差別、LGBTの権利、女性の社会進出・・どれも大事な話題だと思うし、個人としては解かれるべき課題だと思っている。そして、こう言った社会問題を考える上では、アメリカはとっても面白い国だとも思う。歴史的に苦しんだ人が多い国で、かつ同様に情熱を持って取り組んでいる人も同じくらい多い。

ただ、私自身が同じくらい情熱を持ってそれらを考えたりできるかというと、若干疑問。やはり20年以上日本に育つと、そういった意識は育ちにくいのかな。そして、周りがそれらに非常に盛り上がっているだけに、同じレベルで共感できない自分はやはりアウトサイダーだなと感じてしまう。例えば、上のようなことを言った時点で、こちらの人々に抹殺されるか、「なんでそう思うの?」と1セッション設けて詰問されそうである


ただ自分が盛り上がらない議論になぜみんなが盛り上がっているのか学ぶのは結構面白いと思うので、情熱的な人が多いことを十分利用してお勉強させてもらおう。後は、他人が自分をどう思うかで一喜一憂せず、「七転び八起き」精神で残り1年頑張る。多分、転びすぎるくらいで丁度いい

2016年8月25日木曜日

ねこ

本当にどうでもいいことなんやけど、猫が多いんですよね、バークレーは。特にこの猫達、私の顔を覚えて前を通りかかるたびににゃーんとか言いながらすり寄ってくる。

本当、なつかれると可愛くなるんやな。毎日うちの猫のように可愛がっている。荒んでいるときは思わず話しかけてしまうし、そうするとしたり顔で聞いている(ように見えなくもない。)独身女性が寂しくなると猫を飼う、というのはなんかわかる気がする。しらけない程度の抜群の距離感。構って欲しいのかほしくないのか、なんともわからんが、毎回寄ってくるので多分ちょっとは遊んで欲しいんかとおもう

新学期が始まるにつけての漠然とした不安

今週の月曜日、新学期が始まった。二年目MBAの秋学期開始である。

仕事から離れて学校にまた戻るというのは、なんとも不思議な感覚だ。座って授業を受けていると、確かにこんな感じだったなとは思うんだけど、やっぱり自分はすごく特殊な環境にいるんだろうなと思う。そして、ここに感じる漠然とした不安感。朝起きると、大したことがあるわけではないのに、その日1日に漠然とした不安を感じる。これは一体なんだろう。

多分一つは、自分は毎回環境の変化にすっごく弱いので、そのせい。インターンの時住んでいた家から元の家に引っ越して、学校には当然だが元二年生が卒業していなくて、授業は新しいものを選ばなくてはならなくて、、、等、これほど震度が大したことないことでも、大地震並みの十分揺さぶりを感じている。

もう一つは、まだはっきりと得体の知れない「焦り」。あと1年だから、何かしないと、何かしないと、と相当前のめりになっている自分がどこかにいる、気がする。「ためになる授業をとらないと」「何か学ばないと」「学校以外で何かできることないか」みたいな、細々とした考えをじりじりと背中に感じる。

一歩下がって考えると、多分そんなに焦る必要はないはずなんだけどな。授業で学びがあるかどうかは、本当に自分次第だと昨年感じた。どんだけすっとんきょうな授業でも、毎回学んだなーと感じることが多かったのは、「学ぼう」という姿勢がもたらした効果だった気がする。逆にそういった気持ちを2年目も変わらず持ち続けることができるだろうか。恐れずに自分の思うことを、他人と分けることができるだろうか。


授業以外で何かすることないか、ということも、直感に従えば多分できるはずである。もう当たり前になっているが、クラブの運営もしているし、その他に興味がないことはない。本もたくさん読みたいし、そういうことに時間をつかってもきっと良い。人と会うことにもっと積極的になることも必要だと思う。

そん考えると、不安になることなんてないはずや、と自分にぶつぶつと言い聞かせて、なんとかこの一週間を乗り越えるつもりである


2016年8月12日金曜日

インターン終了:喧嘩腰の気合の行方

インターンが終わろうとしている。意識的に、作業を引き受けるのを止め始めた。もう中途半端に手出しすると、かえってややこしくなるような段階に来ていると感じるから。

本当に自分は米国で通用するのか、という疑問を胸にこの会社にのこのことやってきた。通用する、とは、日本人であるとかいうことが一切価値にならない環境で、一人のビジネスパーソンとして現地人とどこまで競えるのか、という若干喧嘩腰の気合である。

結果、多分できた。

今日直属の上司の一個上の上司とのフィードバックセッションがあった。いろいろとフィードバックをもらって、今後改善すべきこと等しっかり聞いたので、なんか久々に学んだ感を得、おつかれーした!と部屋を去る雰囲気にすると、その上司からこんな言葉をもらった。

「君の持っているスキルだけじゃなくて、情熱とか、Can do attitudeとか、本当に、素晴らしいと思った。君は僕がいつどんな無理を言っても、一度も「それどうすればいいのかわからない」と言わなかったし、次会うときにいつも答えを持っていた。もし僕が君の採用に関して何か言う機会がもらえたら、絶対に君を取れと伝える。絶対に帰って来なさい。インターンがここまでインパクトを社内に残すプロジェクトを完成させることは滅多にない。きっと、誇りに思っていい。」

なんと、手放しに褒めているではないか。でも、アメリカって人を褒めるのはもはや文化だからな、とはっと我に帰り、若干割引して聞くことにして、でも「絶対に帰ってきてほしい」という言葉はとっても嬉しかった。以前カナダで就職活動して面接すらもらえなかった5年前から、海外で爪痕残せるまでに成長したんだな、と素直にちょっと感動した。

まあこの人に採用権限はないし(縦社会やからな)、私がここに残りたいかというとかなり疑問だが、これを持って、非常にいい経験だったと言ってもいいんじゃないやろか。海外でなんとかやっていく自信がついたことで、将来に対する選択肢がぐんと広がったきがする

2016年8月2日火曜日

不安な人にとって、安心できる人になるには

不安になりがちな人に対して、何かを伝えるって難しい。これは、ふとインターンが最終フェーズに入って学んだことである。

私の作ったモデルに、一部欠陥が見つかった。正確に言うと、マネジャーが渡して来たデータが間違っていたので、玉突きで不良が起こっていた(本当にやってくれた)。「お」と思って、正しいデータに直した際、どれくらいインパクトがあるのかざっくりと試算する。まあ影響なくはないが、大騒ぎするほどでもないな、という結果。かつ、長期的な運用には一切問題ないことがわかった。やれやれと胸をなでおろしつつも、やっぱ言っとくか、と電話をマネジャーに入れる。


出だしがまずかった。「こうこう理由で、欠陥が見つかったんですが、結果はxxなので、心配ないと思っています」と伝えたが「欠陥 (problem)」という言葉が非常に悪かった。かつ、安心させようと「心配ない」を繰り返したことも良くなかった。彼の不安ボルテージが「がっ」と上がったのを電話越しに感じた。「やば」となった時は手遅れ。そもそも気が小さくて、目線が低い人。目先のミスとか、偉い人に見つかったらどうしようとか、そういうことばかりきになる人なのだ。

「これじゃあ、結果なんか見せれない!」と急に全てなかったこと、つまりは海の藻屑にしようとするマネジャー。「いや、それはやりすぎや!」と踏みとどまり、順番に説明しようとする私。「じゃあこういう分析がないとだめだ!」と謎の作業を投げ返すマネジャー。私「その分析無意味」とあっさり拒否。もはやコントみたいな展開で、今思い出しても苦笑する。

なんとか落ち着けたものの、どうすればよかったのかなーと今になって振り返る。答えはない。前置き(心配不要)をするよりちゃっちゃと問題があることを伝えて、そのマインドセットで聞かせればよかったか。先にメールの一本でも入れて、心の準備をさせておけばよかったか。。。

不安になっている人(なりがちな人)に、どうやって「難しいコミュニケーション」をするのか。あまりそういう場面に立つことがなかったからこそ、自分はまだまだ未熟だなと感じた。圧倒的な安心感と、コミュニケーション能力を持った先輩を覚えている。ああいった、「多分大丈夫」という謎の安心感をどうやったら出せるようになるのか。。。自分に足りないものが見えただけでも、よかったんやろうな。



2016年7月26日火曜日

くそーと思う程の刺激が丁度いい

すごい、刺激があった。

いい意味でも悪い意味でも、音でいうなら「どかーーん」という感じだった。今日は満を持しての「めっちゃえらい人」への報告の日だった。

手応えはなかった。なかったというと正確ではなくて、彼の欲しかったものと、どれだけ近いものを作れたのかはわからなかった。彼が「これを次のステコミの議題の一つにしよう。君も来てね」と言ったので、100%的外れなものができたわけではないと思う。でも、プレゼン中の嵐のようなチャレンジとか、何を期待しているのか測りかねる発言とか、最後まで「むー」と唸ってしまった。

一つは、彼が何を欲しがっているのか、を確認するチャンスが、今まで一切なかった。100%に近い形でえらい人には持って行く、という文化なので、「すり合わせ」という考え方はこの組織にはあんまりないし、提案しても許してもらえなかった。なので、「あの人はこれが欲しいんじゃないか」という仮説の元に、作り込んでいく。結果、正直一週間目に議論すべき内容で、議論が止まる。それに対する歯がゆさ。

かといって、それを完全に文化のせいにするのは、やっぱり間違っているだろう。求められていないからって、自分が考えることを止めてはいけない。これって、結局誰がどういうアクションを取るためのものなの?って、うざがられても繰り返し聞くべきだった。「そんなのxxxに決まってる」って直属の上司には何回も突き返されたけど、そこにチャレンジしていく勇気を、それをもっとうまくする技術を、もっともっと磨かないといけなかったし、磨いていくんだ。それがうまくいったとしてどれほど結果にインパクトを残したかははっきりいって謎だけど、それが十分でなかったと感じるからには、やっぱりできることがあったんだろうな。


でもやっぱり、「くそー」と思うこの感覚はいい。そしてこの刺激は、やっぱり高い目線の人からしかこない。この仕事が一体どういったインパクトを生むのか、そういった目線でのチャレンジは、ワクワクするし打ち返したい!って思う。毎日じゃなくてもいいけど、もっともっと、こういう刺激がほしい。そして、今の直属の上司じゃやっぱりだめなんだ。(彼は今でもフォーマッティングさえ直せば良いと思っている。いい加減フォーマッティングの話するのやめとけ。そこちゃうって)

きっと世の中の多くの人が、こう言った不満とかフラストレーションを感じて毎日を過ごしている。でもそんな中で「うまく立ち回る」術を身につけたり、かたやストレスに潰されたりしてるんだろう。上の人としたい。もっと意味のあるチャレンジしてほしい。そのチャレンジに、うりゃーと立ち向かっていくような仕事の仕方はめっちゃいい。それって、やっぱり頼みすぎなんやろうか





2016年7月19日火曜日

ビジネスコンテストからの

絶対3日以上かからない仕事に「じゃあ、2週間でお願い」と言われて、「いや、それどう考えても3日でできます」と返すことが続いて早1ヶ月強。別に私がめちゃくちゃできるとかでは決してなくて、他のインターンも似たような経験をしているみたいだ。これを、アメリカ的ゆとりとかゆったりとか呼ぶのか。。。6時に帰る生活にもはや違和感を感じなくなったが、もやもやする。典型的な大企業病だろうか。。

ただ先日、結構面白いことがあった。(ほんとに)うっかり優勝したビジネスコンテストの過程でアドバイスしてくれた社内結構偉い人に、「優勝したみたいだし、キャッチアップしよう」と呼ばれてほいほい会いに行く。だいたいどんなビジネスプランになったかひょいひょいと説明して「お世話になりました!」と帰るつもりだったが、「この後どうするの?」と聞かれた。「は?」とおもわず返してしまったが、「面白いプランで考えることに意味はあったと思うんですが、正直、実現可能性でひっかかるんですよね」と正直に続けた。そこに、「そんなことないよ!」と彼が情熱的に語り始めてからはただ圧倒された。今の社内での取り組みとどう関連するかとか、どこのチームの人が興味を持ちそうかとか、実現可能になるためのプロセスとか、えらい面白い話をしてくれた。「これ今まで考えた人いないから、絶対面白いよ!」と目をキラキラさせて語る、中年のインド人。。彼は「これをどうビジネスに実際に組み込むのか」というマインドセットで私とのミーティングに臨んだんだ

なると俄然興味が湧いてきて、「えーやってみたいかも」とか考えてしまった。インターンという自分の身分がちょっともどかしい。何より、大企業病の気があるここで、こんなにもフットワーク軽く、情熱的に何かを考えてる人は、やっぱり探せばちゃんといるんだな。私はエンジニアじゃないから実際のシステムは作れないんだけど、こういう「速いスピードで何か新しいものつくりたい!」人と仕事をするのは、西海岸ならではで楽しいのかもしれない

2016年7月15日金曜日

砂漠の上のアイス

こんなものか

という偉そうなことを思っている。いろんな人にしばき回されそうであるが、インターンが残り一ヶ月を迎え、圧倒的に感じ始めた物足りなさ。。をここに吐露しておくことにした

何が原因かはわかっている。上司の目線が低いんだ。以前話した、「結局何のためにこれをしているのか」という目線を持っている人が、この会社には圧倒的に少ない。私の直属の上司も全く例にもれず、そういった感じだ。毎回、「いや、そのやり方だとそもそも意味ないんじゃないでしょうか。。。」という話をこちらから持ち出す必要がある。それはそれで良い経験なのかもしれないけど、その後襲う、とてつもない焦燥感。「こんなことに時間使ってて良いのか」という焦りだ。

例えば、私は今会社の人員予測モデルを作っている。来年どれくらい人が入ってきそうなのか、どれくらいいなくなりそうなのか。。。もちろん予測と実際には差があるのだが、予測があって初めて、なぜ差ができたのか、という話ができる。なぜ米国で予測と大きくぶれたのか、なぜアフリカの特定の国で予測より大幅に離職が続いているのか、、、そこに紐づくアクションや、起こるべき議論のベースになる予定である。一方で私の上司は、モデルの精度を上げることに非常に敏感で(それ自体は間違ってない)、一年予測が実際を大きく下回った年に、「この年だけ一律で予測を引き下げてはどうか」という提案をしてきた。ここまで前振りを話せば、「いやいや。。。ちょっと待てや」と誰しもがなるはずである。予測が大きく下回ったこと自体が重大な事実であり議論すべきなのであって、予測を修正して実際に近づけては意味がない。結局、何がしたかったのかを忘れている。そして、こう言った議論があちらこちらで頻繁に起こる。


ただ、一つ二つ上のポジションの人々は、高い経営者の視点をもちろん持っている。話していてとっても面白い。「あ」と気づかされる瞬間があったり、納得する瞬間があるたびに、この感覚がとっても好きだと思い出す。「今日は良い日やったな」と思う日は、やっぱりはっきりとした学びがあった日であることが多いからだ。学び、というのは目線を引き上げてもらうたびに起こると個人的に思っていて、だからこそ「誰と働くのか」が私にとっては本当に大切だ。ただ、そんな彼らと直接仕事ができるようになるには、この会社ではとてつもなく遠い。少なくとも5−8年待たなければいけないだろう。そんなに、正直待てない。砂漠の上のアイスである

加えて、人を育てる、という考え方があまりこの会社にはない。各々が得意なことを、各々がやっている感じだ。それでもなんとなく回っているのは、市場での存在感が大きいから。人さえ突っ込んでおけば、とりあえずお金が儲かるんだ。だから、とりあえずいっぱい採用する。採用して、とりあえず働かせる。「忙しいから、メールで」って、それ自体は間違ってないけど、メールでできる内容と、実際会うべき内容との境目が、かなりいけてない場合が多い。コーチングとか、次のプロジェクトの話とか、メールでしちゃダメだよ

そんなことに気がついた瞬間に、突如「どうしよう」という不安と苛立ちに襲われた。仮説的に今後の将来を決めようと思って足を突っ込んだ「アメリカの会社」。今少なくとも、ここにいたら腐るやろうなと思っている。福利厚生とか、ワークライフバランスとか、とっても良い、典型的な大企業。でも、自分は多分成長しないだろうな、って分かった。それでもいい、家庭と仕事を両立できるこになるねん、とするのか、どうなのか。外の世界ってみんなこんな感じなんだろうか。

2016年6月29日水曜日

80%で見切り発車 - キャリアに求めるバランス

インターンが一ヶ月弱すぎて、一度振り返ってみたら、「普通のサラリーマンてこんな感じかね」という感じだ。

やっていることは、結構チャレンジングで面白い。頭を使うし、「むーん」と考え混むこともある。ただそれに対して一つ一つ答えを出していって、それが信用を得ていって、「君の好きにやっていいよ」と言われるようになるまでの過程で色々なものを学んだ。(逆にそれがすぎて現在自由野放し状態である。私は嬉しいんだが、私がいなくなった後この人々大丈夫だろうか。。。などとえらそうに考えている)

一方で、ちょとゆるい、と思うことも多い。それ自体がコンサルティングに毒された考え方なのだが、一つ一つの意思決定、行動までが、驚くほど遅い。加えて、みんな責任取りたくないのか、絶対えらい人が「ええよ」というまで一切動かない。「自分はこう思う」が、あまり存在せず、存在しないからそれに基づいて「見切り発車」することはない。以前の私だったら、80%正しいと思ったら見切り発車した。20%の確率で無駄作業になるけど、それで前に進む物事の量を考えたら、トータル期待値アウトプットは見切り発車しない時より大きい、という考え方だからだ。しかし、この組織というのは何事をとっても特に厳しい締め切りがなく、「大体この辺を目指して、無理ならいいよ〜」というふわふわした感じだ。

それが、ポジティブに働くこともあるのは確か。ここしっかり頭使いたいと思ったらとことん考えることができる。また、締め切りに追われて青い顔をしてデスクで冷たいご飯を食べながらパソコンにかじりつく必要はなく、同僚と「仕事以外の話」をすることがたくさんできる。そこから人間的に学ぶことは実は結構あった。多分家庭を持っていたらなんとか両立している自分も想像できるし、実際そうしている人が周りにいっぱいいる。

多分、私が欲しいのはバランス。やっぱり、高い視点の人と仕事をするのは楽しいし、みんなが一定の目標に向かって頑張るスリルは、捨てがたいのが本音。一方で、それが度を越したところから来たんだな、ということも感じる。それって本当は1か0じゃなくて、それ以外の世界に自分の居場所をしっかり持つことが、後ろめたくない場所があるはずなのに。







2016年6月21日火曜日

会社の歯車になるというジレンマ:本当にトレードオフ?

インターンが2週間終わった。正確にいうと、実際の仕事をしたのは一週間強だけど。そこには、いろんな気持ちがある。

まず、前職にいろいろと感謝した。今やっている仕事で前職に助けてもらっていることをあちらこちらで感じる。まず、「こいつは多分ばかじゃない」というスタートラインに立たせてくれたのは前職の会社の名前が持つ力である。それだけで、(よっぽどあほなことを言ったら別だが)物怖じをせずに自信を持って正しいと思うことを話すことができる。実際に仕事をこなす段階になっても、やっぱりテクニカルなところや物事の進め方で引っかからないように鍛えてくれたのは前職だったろうなと思う。

一方で、やっぱり苦労することもある。それは後々記録していくことにして、やっぱりジレンマを感じるのは「これがやりたい仕事なんだっけ」だ。人材に関する仕事をしたかったので、多分いる部署は間違ってない。でも、私がやっている仕事は99%「分析」。もっと正確にいうと、分析をするためのツールを作っている。それ自体が間違っていることはない。でも、「問題」を解いている感覚はない。もちろんハイレベルには会社が抱えている問題がわかっていて、自分の仕事がそこのどこにフィットするのかも理解している。ただ、もっと解かなければいけない問題がありそうなのにそれに「触れない」モヤモヤ感。。。

「そもそも」の議論ができるのは、やっぱりコンサルティングの特権だったかもと思う。そもそも、この会社の人材の問題はなんなのか。「この仕事」がその問題を解いているのか。。。もちろん、ただのインターンがそんなところドンピシャで触らしてくれるとは思わないんだけど、やっぱり、もやもやするんだよ

それに関して言うと、「何を解いているのか」を、必ずしも全員が意識しているわけではないと感じることがある。技術系インターンをしている男性が、彼が作っているシステムの話をしてくれた。それ自体はとっても面白い技術なんだけど、「それ、なんですごいんですか?何のために使われるんですか?」って聞くと、「それは彼女の部署がやってるから、よくわかんない」と別のインターンを指差した。役割分担、という言葉があるように、それぞれの人の仕事にはスコープがある。でも、日々自分が時間を費やしていることが、何のためにあるのか、何に使われるか即答できないって、結局「何を解こうとしているのか」を意識していないってことなんじゃないだろうか。同じフロアの人の会話でさえ、たまに「言われたからやってる」と感じる会話を聞くことがある。もちろん上の階層ではそういった「そもそもの問題解決」が起きているかもしれないんだけど、そこまで待つには、あまりに長い

事業会社はあまりにも規模が大きいゆえに、一人一人は歯車の一つになりがちだ。それでもこの会社は会社の規模の割に人が少ないので、一人の裁量は大きい方なんだ。だから、もっと一般的な会社はより歯車感があるんじゃないだろうか。それって、やっぱりちょっと辛いんじゃないだろうか


2016年6月13日月曜日

インターンシップ:転職のもやもやってこんな感じ?

インターンの一週目が終わった

気疲れとはこのことかなと思う。特にすごい大きなことをしたわけではないのに、結構疲れた。でも、既に本当にいろんなことを勉強した。一番言えることは、これは中途転職の絶好の練習機会だということ。元コンサルの中途入社ってきっとこういう感じだろうか。。と思う瞬間が沢山あったから

1)新卒みたいな「うぎゃーなにこれ!」という感覚はない
新卒の時を思い出すと、なにをするにも大変だった記憶がある。例えばコピー一つを例にとると、プリンターってどうやってインストールするのか、どうやったら印刷できるのか、印刷設定ってどうやってするのか、印刷したものはこの山のようにあるプリンターのどこから出てくるのか、「両面」ってどうやってするのか、印刷は白黒なのかカラーなのか、普通何スライド一枚に印刷するのか、ホッチキスでとめるのかクリップなのか、、、そして間違えたらちくっと怒られた。懐かしい。そういった、基本動作ではさすがに慌てなくなっているので、そういういちいち小さいことに神経をすり減らすことはない


2)一方で、すごく特別扱いされるわけでもない
誰かが手取り足取り仕事を教えてくれるわけでは、当然ない。新卒のようにせーので入ってくるわけではないので、他の社員にとって私の入社日は1/365日。当然他の仕事もあるし、すごい熱烈に迎えられるわけではない。それは、別におかしいことではないくて当たり前。私がdirect reportする上司はどうやら結構偉い人なので、本当に忙しい。一切捕まらなくて、初日私は完全社内無職だった。忙しい人と仕事をするのは慣れているので、ここはじりじりとうまく動かないといけないかも


3)事業会社特有の「ヒエラルキー」
これ、地味にすごいな、と思った。コンサルティングとの圧倒的な違いは、ヒエラルキーの順番に話をしなければいけないということ。例えば私のプロジェクトは例の「結構偉い人」からすごいハイレベルに説明を受けた後、「君が一緒に働くことになる同僚(=彼の部下)」から全く同様の説明を受け、さらに「君が日々コンタクトを取ることになる同僚(=その下のマネジャー)」に紹介され、やっと実際のデータに触ったり、実際に同プロジェクトを進めるべきかの話ができた。あまりにもレイヤーがあったので、「共通認識のために」というスコープスライドを自主的に一枚作るはめになった。コンサルティングだったら、この人たち全員が同じ場所に集まって、プロジェクトがスタートする。そうしたら、実際会議に必要だった30 min x 3人 =90 minも30minに減るはずなのに。なんでそこ合わせる努力しないんかね。

何はともあれ、始まった。自分のペースで、無理せず2週目も頑張ろう


2016年6月1日水曜日

インターンシップが始まるので

気が早いようで、インターンシップが始まろうとしている。中国から帰って早速始まってしまうんだから、感慨に浸っている暇さえない。海外でお金を貰って仕事をするのは、初めての経験になる

初めて日本人以外と仕事をしたのは思い返せば大学二年生の時、ビジネスコンテストに参加した時だった。日本人にしては英語ができる方だと思ってたし、いけいけしていた時期である。結果としては惨敗。英語のスタミナは2日と持たなかったし、チームに自分が思っていることを順序立てて説明したり、ものごとを前に動かす力を持っていなかった。無力で辛くて、握っていた手が内出血していたのを覚えている

その時に比べて、今の自分にはちょっとは自信がついただろうか。インターンの前にIBDの経験ができたのは良かったかなと思っている。自分の強い部分が分かったし、英語はできないなりにも、仕事はできるな、という程度には上達したんじゃないだろうか。日本人であることを忘れて価値を出すことが、こんなにも不安で、誇らしいことだと知ることができたのは、本当に良かった

インターンでは違う困難に出会うに違いない。知らないことだらけだし、(引っ越すし)、そもそもお荷物に成る可能性だってめっちゃある。その時に、この経験がどれだけ助けてくれるだろう。再び惨敗することは覚悟の上で、以下のことを勉強するつもりでインターンシップに挑みたい
  1. 海外(米国)で働くとはどういうことなのか。ワーキングカルチャーやコミュニケーション上の注意等、今後海外で働くことがあった際に気をつけるべきことを学ぶ
  2. コンサルティングではなく、事業会社という初めての環境で、ものごとがどのように動いているのかを学ぶ。IBDで学んだように、どういったことが「当たり前」でないのか、自分が圧倒的に欠如している常識はなんなのかを学ぶ
  3. 人材開発、HRというファンクションが、企業の中ではどのように戦略立てて進められているのかを学ぶ
  4. いろんな人に会う。ここでしかない出会いがあるはずなので、遠慮せずにどんどんネットワークを広げる

書いてみると、ちょっと不安になってきてしまったが、いつも最初の数日はちょっとしんどいんだ。そこを過ぎたら、きっと楽しくなるに違いない

IBD終盤:プレゼンテーションが大ゴケする前に

IBDも残す所あと少しになりました。

3週間とかゲロ長いなと思ってたら、2週目以降はどどどーっと過ぎて行ってしまって、あっという間に終わりを迎えそうだ。ここに来て、本当に来てよかったな、と思った。学んだことは本当にプライスレスだった。最終プレゼンが上手くいかなかったら振り返りをする気力もないだろうから、今のうちに振り返りをしておこう


1)自分の強みを自覚すること
自分の「強さ」を実感するのは、良くも悪くも比較による所が多い。そして、違う種類の人々と長くみっちり働くことで、自分の強い部分がどこなのかを実感することができた。大きくは、コンサルティング歩兵基本装備である「クライアントが何を欲しているか考えて一歩引いてみること」「一つ一つの作業を迅速にやり遂げること」。

いやそれ、誰が喜ぶの?という問いを何度もした。私がクライアントだったら、という口上で始めたことが何度もあった。始めはうっとおしいヤツと思われたらいややなーなんて思いながらだったが、それ一つ一つが「信用」を得てゴールに結びついて、君はどう思うの?と聞かれる回数が増えて、これは自分の強みと呼んでいいんだろうかなと思うようになった。

また、レポートを書くこと、資料を作ること、そんな当たり前のことを「アウトプットとしてちゃっちゃと出す」ことが、実は当たり前じゃなくて感謝されることなんだと知ることができた。君はロボットみたいにちゃかちゃかパワーポイントつくるねって冗談言われたこともあったけど

2)コンサルティングのバリューを、コンサルティングでないやり方で提供すること
自分が非常に速いペースの世界から来たことを思い知った。一つ一つのチームの作業が「遅い」。それに対してイライラする自分。なぜレポート2枚書くのにそれほど時間がかかるのか。なぜ2時間かけたパワーポイントが意味不明な状態で出てくるのか。見積もった1時間に対して8時間かけてくるチームメイト。。。ただイライラのフェーズを過ぎたら、それが本来は当たり前なんだと理解した。みんな違うスキルセットを持っていて、(多少偉そうに聞こえても)自分ができることが他人もできると思っちゃいけない。自分ができないことをできるチームメイトもいるのだから。それを見越して、チームがこけないようにプラニングしないといけない。どこでだれとどれほどチェックインするのか、どこまでガイダンスを与えるべきなのか、全員の理解は揃っているのか、等、こけないために考えることは色々あって、イライラしている暇はないはずなんだ

そして、同じレベルのプロフェッショナリズムを求めてはいけない。作業が終わっていない状態でビール飲みに行ったチームメイト、自分がジョギングに行きたいためにチーム全体に謎の2時間休憩を求めてくるチームメイトにかなり切れそうになったが、そんなことで切れていたら血管がなくなってしまう。チームのモチベーションを下げずに、最終的なアウトプットにつなげるためには、自分と同じハードワーキングレベルを求めてはいけないんだ。自分ほどのワークスタミナを持っているひとは、コンサルティングの世界では普通でも一歩外に出れば多分それほどいない。それを、狭い世界にいると忘れがちになってしまう。忘れがちというのは、頭で理解していても、そうでない人に対してイラっとすること。頭で理解していても、やっぱりむずかしいんだけど

3)自信を持って言い切ること-英語と日本語の違い
日本語は「察する」言語である。主語は省略されるし、最後まで言い切らなくてもみんなだいたい意味がわかる。英語はそうじゃないんだ、と改めて強く感じた。特に難しい話になったときに、100%言い切ることの大切さを痛感した。なんでそう思うのか、どうして不安なのか、どうしてこれが気に入らないのか、賛成なのか、反対なのか、、、シンプルにかつ100%話すことで、伝わる量が逆に増えた

と考えると、当初の目的は達成できたと言っていいんじゃないだろうか。やっぱり自分はまだコンサルタントの価値観から抜け出してないな、と思うことはほぼ毎日あるし、イライラしている自分に気がつくこともあるんだけど、なんでイライラしているのか、を冷静に考えることができるようになった。一方で、自分の懐の狭さ、リーダーとなるには小さすぎる「懐」を、痛いほど感じた。それに気がついたのは、やっぱり大切なことだったんじゃないだろうか。これでプレゼンテーションが大ゴケすると、また違った感想が出る可能性があるが、今はまず大満足と言っておこう








2016年5月23日月曜日

パンダ王国中国にてのIBD:寛容になる勇気

IBDで中国に来ている。クラスのプロジェクトとはいえ、クライアントが存在することからしゅっと気が引き締まる思いがする。今ちょうど一週間が終わって二週目に入ったところだ。3週間のプロジェクトなので、国内の仕事としては、半分弱が終わったところだろうか。

ストレス溜まるだろうな。。。と思っていた以前の記録に違わず、いろんなチャレンジがあるし、めっちゃストレス溜まってる。ただ一方で、思ったより破滅的にストレスアウトしているわけではないので、幸運かもしれない。チームが思ってたより強いし、それぞれの価値の出し方に以前より自分が寛容になったのがかなり大きいかな、と思う。こういうストレスは時間が経つと忘れてしまいがちなので、忘れないうちに書き記しておくことにする。

1) 時間に相当ルーズ
まじこれ。何回かあからさまにイラっとしてしてる。日本人は時間に忠実というけれど、
それを身を以て感じたのは初めてかもしれない。まず、ミーティングの開始時間が遅い。プッシュバックしたが、朝10時に設定しようとしているチームメイトがいて、こらまてよ。となった。チームの合意として9時に設定したら、一応9時には来るし、それに対しては結構コミットするようだ。しかし何がすごいってやつらは9時に朝食を食べ始める。実際に議論が始まるのは9:30だ。私は当然9時には議論が始められる体制で待っているので、これ相当ストレス溜まる。てめえ、昨日の野球ゲームの話ししながらオムレツ食ってねえで、アジェンダの話ししろよと本気で思った。の割に時間が足りないと言って会議の時間が長引いたりするから、怒り心頭だ。じゃあ9:30に時間設定しろよと言い出しかねないが、大人大人とぐっと堪える。

2)プロフェッショナリズムの欠如
これも、「うぎゃっ」となった瞬間が何回かあった。金曜日の夕方から週末にかけてチームで旅行に出かけるつもりでいて、私は当然ながら夜のフライトを予約した。一方、2名のチームメイトは、クライアント先を2時に出なければ間に合わないフライトを予約していた。「いや、てめえ金もらってプロジェクトしてんだから、ワーキングアワーにそれはやめとけや」と思ったが、ぐっと我慢ぐっと我慢。。ここはなんとか大人に乗り越えたが、振りきれたのが、そのチームメイトがクライアントに対して「金曜の夕方から旅行に行くので、2時以降にミーティング入れないでください。飛行機乗り遅れたくないので」と言った瞬間(!)。これはさすがにフィードバックした(頑張った私)。

あと、クライアントが何度か食事をご馳走してくれたことがあったんだけど、チームの何人かがそれを「当たり前」と思っていること。もちろん我々は学生なんだけど、なんで手土産とか、感謝の一言とか、そういうことに気が回らないんだろう。食事中も自分の話しばかりして、クライアントが聞き役に回っている。ハラハラして、正直食べた心地がしなかった。

あと、クライアントの言ったこと普通に聞き間違えたり忘れたりしていること。いや、5点ある、ってクライアントはっきり言ってたのに、なんで3点しか残ってないんだ!!と叫びたくなることも笑 「クライアントと約束したけど、どう考えてもできないからこれはやらないつもり」っていやだめでしょ。だったら(ミーティング)その場で持ち出すなり、もう一度議論するなりしなきゃでしょ


と書き出してみると、私のストレスは文化の差と、以前の会社で培った哲学から来ているんだな、と理解する。そう言ってみると当たり前で、そりゃそうでしょとなるんだけど、これらを実際に本当の意味で体験した人はそんなに多くないんじゃないかなと思う。じゃあこれをどうすればいいのか、っていうと答えがない。

ただ一つ自分に言い聞かせたいのは、寛容になる必要性だ。おそらく、外の世界はこれが結構当たり前なんだろう。自分がみんなと同じように時間にルーズになる必要もなければ、プロフェッショナリズムを欠く必要はない。(というか、しちゃだめ)だけど、それができない人に対して、「いら」とした態度を見せずに気持ちよく仕事をするには、精神的にかなり大人にならないといけない。「これはリスク」と思う時を除いて、流れに身をまかせる勇気と寛容性を、どれだけ身につけられるだろう。これは、残り2週間の課題にしないといけない。将来人の上に立つ時が来たら、寛容で人を信じられるリーダーになりたいから















2016年5月13日金曜日

6年ぶりカナダ 世界一住みやすい国??

カナダとアメリカは似てるけど、やっぱり違うなと思った。やっぱり、カナダは綺麗で、安全だ。ホームレスの人はいるんだけど、数としてはアメリカの(特にバークレーとかサンフランシスコの)1/10くらいだろうか。。。ただ、やっぱり「お、あぶねえ」という場所はあって、そこはアメリカと中国で鍛えた嗅覚でさささと通り過ぎる。あと、日本人のワーホリぽい人が多い。カフェとか、日本食レストランには明らかに日本人の人が働いていたりする。


以前住んだモントリオールと、バンクーバーも結構違う。当然だが、全員英語を話している。フランス語はたまに聞くぐらいだ。比率としてはそのままフランス語人口を英語人口を逆にした感じかもしれない。ただ、フランス語と英語がうまく共存しているという印象。モントリオールみたいに、言語でギスギスしたり、どちらかができないから「いら」とされている様子はない。住んでみたら印象はまた変わるかもしれないけど

住みやすいかと言われると、そうだろうなと思う。物価も高くない。ご飯も美味しいし、サービスは、日本にかなわないまでも悪くない。ただ、ビジネスとして面白いかというと、ちょっとわからない。全体的にのんびりした場所かも



あと余談だが、カナダには匂いがある。日本に匂いがありアメリカに匂いがあり中国にも匂いがあるように、カナダにもあった。これが、6年前に嗅いだ匂いと一緒で、さっぱりと懐かしくなった。なんの匂いかわかんないけど。

MBAの1年を振り返って 

MBAの1年目が終わった

ああーこんな感じか。と実感がないまま終わった。早い早いと思って、本当にざざざーっと終わった。今カナダのバンクーバーのカフェに腰掛けて、さてさて振り返りでもしようかなと思っている。

カナダに来たことで、以前留学していたモントリオールを思い出した。ちょうどこの時期は帰国の準備を進めていた頃だろうか。やっとカナダに住んでいるという実感が湧いたところだったと記憶している。いつか、もっと腰を据えて勉強しに来ようと思ったことも覚えている。そういった意味では、アメリカは割とあっさりと「住んでる」感覚が湧いた。パートナーと来たことも大きいだろうし、彼がいわゆる生活の難しいところ(家探しとか)を片付けてくれたところはかなり大きいと思うし、自身も以前より肝が座っているので、多少のことでカルチャーショックを受けることがなくなったのもあるだろう

この1年弱のラーニングはなんだっただろう。1年仕事から離れた価値はあっただろうか

1) 英語
地味にこれ。まだまだなんだけど、自分の新しい仲間になった表現の存在を感じることが増えた。冗談言って笑うことが母国語と同じくらい簡単にできるようになると、いろんな他のことにエネルギーを使うことができる。特に議論になった時、それを実感する。私にとって英語の上達とは脳内キャパを問題解決に回せることを意味していて、より効率的に仕事やプロジェクトができるようになったと思う。何より疲労感が減った


2)  価値観の許容
未だに、会社で学んだ価値観は持っているし、そこから抜け切れていないところは否定できない。気が付いたら人をJudgeしてしまっている時もある。「こいつはxxやな。。」みたいな、そういう「できる」「できない」以外の価値観をもっともっと学びたくて、学びたくて、でも口で言うより難しくて、もがいている。ただ、前より変わったかな、と思った瞬間があった。クラスメートで一人黒人の女の子がいる。なんというか、日本でいうとギャルで、あんまり勉強は得意じゃないみたいだ。特に定量的な勉強が苦手で、口のうまさでごまかしているが、少し聞いていると理解していないのはすぐ分かる。「なんだかなあ」と思いながら、たまに授業の帰りに話したり、図書館で近くに座って勉強するくらいの付き合いだった。
ある日、期末試験前マクロ経済学のReview session (TAが学期で学んだコンセプトをおさらいするセッション)に出席したところ、TAが一つ難しい質問をクラス全体に投げかけた。一瞬で「あ、これ多分誰もわからんな」とわかるような、ひねった質問だった。もちろん私も分からないので、TAがしびれを切らして解答を話すまで待っているつもりだった。ところが、そこで例の黒人の女の子がさっと手をあげて、すらりと解答を述べて見せた。なんというか、衝撃だった。彼女は、毎週の補習に全て参加し、TAに質問に通い、きちんとコンセプトを理解していた。見かけによらず、典型的な努力家。何が一番驚いたかというと、そういった彼女に対して自分が持った尊敬と好感だった。今までの価値観は、非効率な努力はどちらかというと評価していなかったし、どちらかというと「天性的に頭が良い」ことが「格好いい」という考え方だった。地頭の良さ、とでも言うのだろうか。一方彼女は、自分が(言葉を選ばずにいうと)地頭の良いタイプではないことを早々と認識し、努力と時間で人並み以上まで自分を引き上げたのだ。それを、素直に格好いいし、そういう人と仕事をしてみたいと初めて思った

3)  価値の出し方
コンサルタントの働き方がことごとく否定された一年間だった。正しく言うと、否定されたというよりは、使い方を叩き直されたと言おうか。正しいことが正しいで伝わらないのは、理不尽ではなくて当たり前。そんなことも気がつかない、いわゆる恵まれた環境で社会人生活をスタートさせてしまっていた。自分が正しいと思うことに気が付いたら、あとはどうやって人を動かすか。自分が進むべきと思う道を、逆からたどろうとする人々と、どうやったら衝突せずに働けるのか。100%伝わらなくても、どこまで伝えれば転ばないのか。今全てに答えがあるわけではないけど、今まで考えもしなかったことを考えるのは、別の筋肉が必要だ。筋肉がなかった場所に筋肉がつき始めている感覚がある

4) 人生における教訓

Haasの授業では、先生も生徒も成績とか気にしない割に「は」っとする言葉を聞くことがある。こういった言葉を京都大学で聞くことは少なかった。ただこれは、受け取る側(私)の問題もあったかと思うので、闇雲に学校を責めるのはやめておこう。その中でも、特に印象に残った言葉。まだまだあった気がするのに、ここは自分の不真面目さ故か思い出せない

・Sunk costを意思決定に影響させるな(ミクロ経済学)
口に出してみれば当たり前だけど。いくら投資したか、よりも、今現時点からの勝率のみが意思決定に影響すべき、というもの。戦争では、すでに何人犠牲になったかよりも、今いる兵力と相手の兵力のみで進退を決定すべき。常に「元取らないと。。。」という思考回路で動いている自分には結構衝撃的だった

・何にでも興味を持て(統計)
正確にはBe curious。破壊的に難しかった授業のあとの一言だったので衝撃が大きかった可能性はある。質問することを恐れるな。お言葉に甘えて質問しまくってごめん先生。でもなんとか統計の話ができるまで辛抱強く教えてくれてありがとう

・できるようになるまで嘘をつけ (リーダーシップコミュニケーション)
Fake it till you make it. Lead Commの授業で紹介された、ある女性のスピーチだった。自分はここにいるに値しない、自分では実力不足、と思ったら、自分と周りに嘘をつき続けろ、というもの。それが本当に自分のものになるまで、「できるふりをする」大切さ

・難しいからって考えるのをやめてはいけない(企業倫理)
Ethicsという、なんともふわふわした授業で、必ずしもこの授業が好きなわけではなかったが、確かにな、と思った。答えがない、で思考停止しがちなトピックだけに、「時間をとって考える、自分なりにポジションを取る」ということの大切さを教えてくれた

・人と対峙する時、それが本当に正しいと思っているのか、自分のエゴなのかを考えろ(CMOスピーカシリーズ)
そもそもマーケティングの話だったはずだが、この一言が衝撃的で残り全て吹っ飛んだ。自分の意見を言う時、人に反対する時、自分へのエゴが少しでもなかったか。自信を持って言えない辺り、きっとあるんだろうなと思う

あと、言葉ではないが、会計の先生は「準備の大切さ」をおしえてくれた。決して素晴らしいプレゼンターではない(しかも英語ネイティブではない)し、会計なんて世界で一番退屈な授業かと思ったが、生徒をいつも惹きつける授業をしてくれた。ハンデを努力で補うことの大切さを教えてくれた


と書き出してみると、結構ラーニングあったんじゃないかな、と思う。こなければわからなかった事ばかりだし、きっと私の人生を変えた。それが1年仕事を離れる価値があったかなんて、誰にもわからない。ただ人生の2年間の投資は、人生を引き伸ばしてみた時に多分小さい。だから、きっと意味のある意思決定だったんだと思う。かつ、MBAの目的を転職にのみ据えるのもやめよう。そうした瞬間に金銭的投資対効果に考えが縛られて、自分の首を絞める事になる。直後のキャリアとか目先のことよりも、大事な事を学んだと思うから

2016年5月11日水曜日

複数言語の習得:獲得と自動化

どうやったら。。。と聞かれることが急に多くなったので、本当にニーズがあるかはさておき、ふと言語習得に関して書き残して置きたいと思った。あくまで、一切帰国子女じゃない・ネイティブじゃないどめの日本人を対象として

自身は日本語(関西弁)、英語、中国語を、一応「仕事で使ってね」と言われても「う。。はいはい」というレベルで話す。もちろん十分かというと、それぞれが母国語の人々には「なめてんじゃねえ」と怒られてしまいそうだ。だが、レストランで注文するレベル以上に「人に意思を伝えて、議論する」レベルに持ち上げるには、特に帰国子女ではない(大阪の田舎生まれ育ちなので、外国人と触れ合う機会はほぼ20年ほど皆無)からこそ、辛い思いをしたし、今でもしている(特に3つめに手を出したあたりから加速度的に。。)そしてその過程で「学び方」にはこだわりができた。もちろん言語習得方法は人によって合う合わないがあるので、もしこれから他言語を学ぼうとしている方の参考にしていただければ、と思って呟いておくことにした。

私にとって、言語習得は1)獲得 と2)自動化。それがゆえに「取り合えず海外に行ったら話せるようになる!」とか「やっぱり言語は単語や!」という考えには若干抵抗がある。

1) 獲得
これは、文法と、単語だ。「なんや、当たり前のことすらっと言いおんな!」とおっしゃる方がいたら、へえ、すいません、というしかない。文法は、やはりきちんと学んだ方が良いというのが私のこだわりだ。それぞれの言語にはルールがあって、そこで試合をするならばそちらのフィールドのルールを学ばなければいけない。「伝わればいいじゃん」というのは、わかるんだけど、そもそも基本的なルールを知っていてあえてルールに沿わないのと、ルールわかんないからがむしゃらに伝えてみるのは、個人的には結構違うと思っている。加えて、ルールを知っていると、2) でのジャンプ力が違う。文法がわかるから、自分で文章を組み立てることができて、それを試して、エラー(実用されている文法とそうでないもの)をチェックする、というサイクルが、効率的に回りやすい。単語も、くそ難しい単語を学ぶ必要はない。が、普段自分が一番使っている言語でよく使う単語は、他の言語でも言えた方がいいというのが私の考え方だ。

2)自動化 = 仲間入り
自動化、というのは、上記で獲得したものが、「考えずに口から出てくる」状態にすること。例えば、Would you like xx? って、文法的にはもちろん何を意味するのかを理解しているし、組み立てることもできる。(まず want = would like、疑問文だから助動詞Would が前に出て。。。うんぬん) しかし、だれかに「xxいる?」って聞きたい状況にふいになったときに、反射的にそのフレーズが出てくるかどうかは、それが自分の中で自動化されているかによる。自動化したらそれはもう組みたれられた文章ではなくて、ほぼ一個のかたまりになっている。

そしてこの自動化は、まずは組み立てて、話す、ことによって始まる。だからこそ、1)がないと成り立たない。自動化されているパーツが、全体の表現の中で割合的に増えていくと、アドリブ(=新しく自動化仲間に入れたいフレーズ)の部分が少なくなるので、話すときのストレスが圧倒的に減っていく。

加えて、1)がある程度貯まらないと2)で加速できないので、言語習得のレベルは階段状になりがち。ほんで嫌になりがち。ただ、ある程度2)が進むと、そっからはぐいーーーっと上がるイメージだ。アドリブが比較的少なくなりあんまり辛くなくなるからか、よく話すようになるからだ。個人的にはこのブレークスルーがたまらない


海外に行ったら話せるようになる!というのに若干懐疑的なのは、1)がない状態で2)をやろうとしても、結局自分が自動化できている部分でしか話さないし話せないので、自動化の幅は広がりにくい。(かなり極端な話をすると、that's rightみたいなのを繰り返すばかりになる)一方で、文法や単語だけ練習し続けても、実際に話して「自動化」しないと、一切会話に出てこない。


Internalizeという英語があるらしいが、感覚としては、まさにこれやなと最近思う。「こいつは自動化仲間入りや」と感じるまで、くどいまでに繰り返して、繰り返して、繰り返す。たまに周りに「なにそれお気に入りなの?」と言われることがあるのはこのためだ。
また、自動化仲間入りしても、かまってあげないとすーっと逃げていくので、適度にお手入れが必要だ。



とはいうものの、言語ってやっぱり難しい。とくにそっち方面にめちゃくちゃ才能があるわけでもないのに、状況が状況ゆえに学ばざるを得なくなり、毎回苦悩を味わっている。でも、言語は可能性をくれる。そういった意味でも、解りやすいご褒美がある学びじゃないかと思う。

2016年4月22日金曜日

ミュートボタンの押し方より言い方:メンツの保ち方

メンツを保つという話です。そして、アメリカで学ぶことになるとは。。。笑いが止まりません。


前の仕事では、正しいと思ったことを言うのは正しかった。それがどの職位の人だろうと、クライアントのバリューにつながるなら、正当化される文化だったように思う。例えば、パートナーがクライアントプレゼンで間違ったことを言ったり、議論自体がちょっとおかしい方向に行っていると思えば、アナリストがステップインすることは普通にあったし、それ自体は感謝されることだった。

一方それを当たり前だと思ってたことは。。認めないといけない。頭ではそうでないと思ってても、「いや、でも正しいことやってるしな」という感覚が身体のどこかにあったんだろう

学校のプロジェクトでのクライアントミーティング(電話)で、クライアントが明らかに追いついてない(=時間をとって資料を眺めたい)雰囲気を出しているのを感じた。一方、チームメートのプレゼンターは細かい分析の設計の説明をしだしたので、クライアントの不安感マックス。私はらはら。。思わず、「すいません、ちょっと一瞬ステップバックしたいんですけど、なんか気になることとか、教えていただけますか。全体的なことでもいいし、分かりにく分析のことでもいいし。この資料に基づいて今後チームが動くつもりなので、しっかりあなたと議論したいと思ってるんです。。。」と突っ込んだ。

クライアントはそこで時間をとって資料を見て、気になる所を突っ込んでくれたのでそれは良かった。自分としては、結果としてクライアントの納得のいく合意にたどり着いたので、「やってやった」達成感もあった

しかし、後日のフィードバックセッションで面白いラーニングがあった。私がもらったフィードバックは、「ミュートボタンを使え」だった。プレゼンターの言い分としては、自分も一旦立ち止まって話すつもりだったし、もしそういうコミュニケーションをしたいなら、コールをミュートして私(プレゼンター)に伝えて欲しかった。ということだ。

ふむ

なるほどなーという感じだった。私の古い価値観なら、それ誰が言っても一緒じゃん。むしろ絶対ここでコミュニケートされるべきと思うなら、なおさら誰がいうかよりも、いついうかが大事やん、よな。ただ、おそらく「ステップバックして」という一言が、彼女の自尊心とメンツを傷つけた可能性が高い、というのが今の段階での大きな仮説だ。よくよく彼女の働き方を見ていると、彼女は小規模の会社ながら前職でマネジャーまで行っているので、チームをマネージする、ことに対する自信がある。そこに、「いやお前全体感ないで」というメッセージが垣間見れるようなコミュニケーションをすれば、反発されるのは当たり前よな


おそらく圧倒的に私がここから学ばなければいけないのは「ミュートボタンの使い方」ではなくて「言い方」。だれかの仕事を取った、という印象を与えずに、価値を出さなければいけない。そしてそれに、今までで一番慎重にならなければいけない。チームメンバーが多方面で才能があるのはわかっているし、みんなスマートなので、彼らのやる気と才能を削らずにバリューを出す方法を考えないといけない。そして、型にはまったコンサルティングのやり方では、きっとそれはできない気がしてきた









2016年4月12日火曜日

IBD中国 コンサルティング技術より働き方

IBDという、学校の看板授業を取っている。内容はいわゆるコンサルティングプロジェクトで、実際のクライアントに対してコンサルティングサービスを提供する。課題はチームそれぞれで、私のチームは中国に行く予定だ。まだ始まったばかりだけど、おそらくちょっとはストレスがたまるんだろうなあと思った。一応コンサルティング出身である。4年弱自分が覚えて学んできた「哲学」や「やり方」を、全然違う方法で学びなおさせる(変な日本語だけど)って、相当気持ち悪い。加えて、手前味噌にも世界最高と言われていた手法を近くで見てきたはずである。「これ、違う。。。」と思った瞬間に混乱からうぎゃーっとストレスが爆発するに違いない。

じゃあそもそもそんな授業取らなければいいじゃないか、ってその通りである。そもそも、コンサルティングをここで学ぶ気なんてない(語弊がないように、コンサルタントとして学ばなければいけないことは勿論山ほどあるが、それは少なくともここではないということ。。)私が学びたいものはその外側にあるはずなのだ

1)コンサルティングという手法に馴染みがない人たちと、いかにうまく働くのか
プロジェクトという形でこれを体験してみたい。コンサルティングじゃないキャリアの方が、人生全体で見たらきっと長いはずである。事業会社やそれに準ずる組織に入った時に、どうやったら効率的に(=ストレスレスに)働けるのかは、今のうちに覚えなければいけない

2)チームの中で、どうやったら軋轢なくバリューが出せるのか
1)の状況になってしまった時に、私がまずしたのは議論・もしくは手法を独占してしまうことだった。少なくとも秋学期は。自分が一番効率的と思う方法に動かして、そこに乗って動いているうちは放置する。。という皇帝みたいな働き方をした。結果的にチームに感謝されたりしたんだけど、それって非常に危険な匂いがする。こいつ気に入らねえと思われた瞬間に抹殺されるマネジメントスタイルにちがいない。他にリーダーシップをとりたい人がいた時に、どうやって最終バリューにつなげるサポートができるのか、どうやったら結果的に全体最適を取れるようなリーダーシップを発揮できるのかは、学ぶに値するんだろう

3)中国で自分のままのパフォーマンスが出せるか
これは、仕事でも体験したけど結構しんどい。英語だって微妙なのに中国語だ。今ここに対する答えはないけど、いつか中国に関わる仕事がしたいならば、避けて通れない道なんだろう。それをリスクフリーに体験できるなんて、いやいやすみません状態である。

と、いろいろ学ぶことは多いはずなんだ。だから、これからいろんな意味でストレスフルな状況に自分をつっこもうとしている自分に対して、応援してやりたい(何様)。これらのうちいくつかを学べただけでも、きっと将来意味のある経験になるはずだから




お経のようなプレゼンテーションの後で

これはなんだろうと。

取っている授業の一つに、マーケティングダイレクターがいろんな会社からきて好き勝手喋って帰る授業がある。(授業というか、Speaker Seriesと呼ばれるもので、その名の通りこちらは聞いて質問するだけである)マーケティングの人だったらプレゼンうまいだろうし学ぶことありそう、かつ積極的に質問する練習に取ってみよう、と気軽に取った授業の一つだった。

まあ予想通り、プレゼンはうまい人が多いかも。ただ学びはそこよりも色々人生の教訓だったりする。それなりの修羅場をくぐってきた人々なので、たまに鉛のような玉を投げてくることがある。「誰かと対峙する前に、それって本当に正しいと思って言おうとしているのか、自分に対するエゴなのかをちゃんと考えた方がいい」、ってもはやマーケティングとか関係ない。期待した通り、質問も色々できるし、ディスカッションに切り口を与える(ということを少なくとも考える)という意味ではとっても勉強になる

ところが、前回のスピーカーでおかしな出来事が起こった。なんと、話が全く頭に入ってこない。「いかん、集中しなければ、質問できひんくなる。。。」と思って自分を授業の中に引き戻そうとするも、意識がふうっ。。。と飛んでいく。一切頭に入ってこない。別にプレゼンが下手かというとそうではない。疲れているのかなーと思いながら、一生懸命目の前のスピーカーを食い入るように見つめるが、尋常じゃないくらい一切頭に入ってこない。

ここにきて、「はて。。。」と思い直した。これって私が悪いのか?一回彼が話していることを聞くのをやめて、「プレゼンテーション」という商品として、じい。。。と彼を観察してみた。そこで、どうして自分が集中できないのかわかってきた


1)スライドがシンプル(すぎ)
彼のスライドは、非常にシンプルで、真っ白なスライドに一行、お経みたいな何かが書いてあった。(Integrate sales and marketing みたいな) 別にそれ自体は別に悪くないし、そういうスタイルもあるかと思うが、何が話されるかわからない状況でいきなりこれがくると、「何の話??」となる。繰り返すが、これがオーディエンスを引き込む手法の一つにもなり得るので、まあこれはそこまで深刻ではない

2) 何がポイントかわからない抑揚
これや、これ。彼はよどみなく自信たっぷりに話すんだけど、声に抑揚がない。ポーズ(静止)もない。したがって、結局何が大切なのか、がわからない。そして、1)との相乗効果でこれが今までにみたことのない効果を発揮した。まず、何が話されるかわからない状況で、かつ何が大切なのか何を強調したいのかがわからない、ので結局「なんだったんだ??」となってしまい、気づいたら次のページのお経を読まされていた。

これって、結局なんだったのかわからなかったプレゼンよりも、よっぽど大事なラーニングやろなと思った。シンプルなスライドは、それを補うプレゼンテーションで初めて本来の威力を発揮する。もしくは逆も然り、スライドが補う威力を、プレゼンテイターは軽んじてはいけない。

一応、クラスメートからも一切質問が出なかったことから、「はて。。。」となっていたのは私だけではないことを言っておこう。しかも、彼ほど偉くなってしまったら、「あのさー」と指摘してくれる人もいないんだろうな







2016年3月16日水曜日

ベジタリアン生活

というか、ベジタリアンではない。ベジタリアンにもいろいろ種類があり、私はどうやら「セミベジタリアン」とか「ノンミートイーター」と呼ばれているらしい


アメリカに来て、あまりにもベジタリアンが多くて驚いた。結構仲の良い人々にベジタリアンが多かったのと、偶然生肉工場のドキュメンタリーで非常にショックを受けしばらく肉が食べれなかった経験から、私は極力肉を食べない(でも魚は食べる、しかも旅行とかお出かけ外食とかでは肉食べちゃう)という非常にゆるいベジタリアン生活をしている。で、こういう人にもアメリカにはきちんと名前があって、「セミベジタリアン」とか「ノンミートイーター」と呼ぶそうな。へえ

今まで、肉が入っていないものは基本的には食べ物じゃないと思っていた分(すき家大好き)、実際こういう生活をしてみるといろんなものが見えてきた。例によってこういう感動は時とともに薄れてしまうから、感動真っ只中の今記録しておこう

1.オプションが多い
アメリカ人のクリエイティビティに脱帽。彼らは基本なんでも「ベジタリアン化」できる。多分ベジタリアンの人が多いから、十分元を取れるというのが理由だとは思うんだけど、基本どういう店に行ってもクリエイティブベジタリアンメニューがある。ハンバーガーはもちろん(パテはキヌアというぷちもちっとした野菜をフライしてできている)、すし(出たアボカド)、ブリトー(豆が胃もたれするほど代わりに入っている)、カレー(ヨーグルトが上にどさっと乗っている。なんの代わり??)、餃子(完全に肉の味したけど、何でできてるのあれ)等々。。

2. ベジタリアンになる理由は人それぞれ
ベジタリアンのオプションを選ぶことで、「お、お前もか」と話しかけられることがある。彼ら彼女らがベジタリアンになる理由はそれぞれで、宗教上の理由(特にインドに多いような。。。)、健康上の理由、昔からの習慣(肉の味覚えてないから食べたくないという私的には結構謎な理由)、ショッキングな経験をした人(牛の死体を運んでいるトラックの真横を通って臭いがトラウマになったとか)、社会的に義務感を感じている人(肉を生産するために必要な資源はうんぬん)とかいろいろ。感覚的には親がどうだったとかいうより、自分で選んでベジタリアンになった人が圧倒的に多い印象かもしれない


3. 特に体重とか変わらない
基本的に、カロリー的にはあんまり変わっていない気がする。炭水化物とか普通にいつも通り取るので、意識してタンパク質取らないと脂肪燃えないんじゃないだろうかと思う。そして、健康的かというと、まあよく野菜を食べているのでそうかもしれないけど、普通の食事マイナス肉だけのこともあるので、これはちょっとよくわかんない

いずれにせよ、一時の肉食べたくない現象は既に去っているので、経験と思ってちょっと惰性でこういう生活してみてるが、別に悪くない。とっても普通。日本で同じことをしようと思ったら、町中にすき家があってちょっと難しいかもしれないけど












2016年3月12日土曜日

インターンシップ決定からのお祭り騒ぎ

インターンシップ探しが終わった

正確にいうと日程とか調整は残ってるけど、おそらくこの会社で夏過ごすことになるんだろう。

結局、アメリカで仕事をすることにした。クラスメートは「おめでとう!」と一緒に喜んでくれたりして、私にとってはぷちお祭り騒ぎだ。

そう、お祭り騒ぎ。なんたって、難しかった。日本人がぽいっとアメリカにきて、仕事を探す難しさ。それは、多分クラスメートはわかってくれていない(そして、わかってもらう必要もないし彼らに悪気は一切ない)カナダに1年間留学した時に、就職活動をしたことがある。30社近く申し込んで、面接にすら呼ばれなかった。何度もなんどもレジュメを書き直してカバーレターを書いて、それでも、会ってすらもらえなかった。

会社側にしてみたら当然である。優秀な人は山ほどいて、その中で英語が微妙でしかもビザがない外国人を取る理由なんて、1ミリもない。アメリカでは特にビザは大問題で、企業にとって非常に労力のかかることらしい。しかも、企業のサポートをもらって申し込んでも、2/3はランダムに落とされるという謎に高い壁。それもあって、留学生は敬遠されるのだ。

だから、その壁を越えていく必要がある。要は、そこまでしても必要な人材であることを分かってもらわないといけない。それって、本当に難しい。今までの自分ストーリーでは足りない。みんなが行きたいような大きな会社で、その差分をどうやってアピールするのか。。。を想像してびびった。日本人であるということを一切忘れ去って、一人の人間として評価され、現地人と間近で比べられる。。。それは、感じたことがない壁に感じた。そして、このプロセスから多くのことを学んだ

かつ、結局何したいの?って自分が一番わかってない。だから、場所がどこがいいのか、どういうことを学びたいのか、を優先して選んだ。また、今まで慣れ親しんだコンサルティング文化から抜け出して、外の世界をビジネスという意味で覗いてみたい。


そして、そんな機会が手に入ったことが、6年前カナダで感じた敗北感を少しだけ塗り替えた。市場が評価してくれる力が、少なくとも少しはついたということにして、あとはこの機会を無駄にしないようにしっかり勉強してこよう

2016年3月11日金曜日

自分の代弁者としての「事実」

自分が正しいと思うことがちょっとでも伝わる時の瞬間は、仕事でブレークスルーがあったときと似ている

アジア人はなめられがちである。被害妄想と言われようと、絶対そうである。加えて女性であり、かつ本来の年齢より若く見られることが多く、クラスメートも年上が多い。英語も拙い。だから、なめられるのはもう仕方がないのであって、受け入れるしかないのだ。そこをベースラインにして、もがくしかない。

だからって、やっぱりいっちょまえに「いら」とすることは多い。「おいおい、だからさ。。。(レベル感ばらばらやで、優先順位明らかにおかしいで、そもそも一歩引いてゴールはなんやったか覚えとる?)」と言ってしまいそうなことがかなりの頻度で起きている。いったことが額面で受け取ってもらえない。正しいと思うことが、正しい、で伝わらない。伝わらない。伝わらない。

かといって諦める訳にもいかないので、あの手この手で頑張っている。伝え方をかえる、オブラートに包んで見る、オブラートを忘れて直球で入れてみる、褒めてみる、突き放してみる、外堀を先に埋めてみる、外堀を忘れ去って本丸をいきなり攻めてみる。。思いつく限り本当に色々実験した。はたから見ると性格が七変化しているように見えるかも。。

ところがある時、ちょっとした発見があった。brainstormingの過程で、過去のデータを使った簡単な分析を申し出た。というか、なんで誰もやってないの?という単純なデータ。3分もかからない分析。そこから見えてくる、事実。ファクトベースという懐かしい言葉が頭をよぎった。一部の人しか分かっていなかった事実・感覚的に理解されていた事象が、全員に可視化され共有される感覚。議論の足が地面に着く感覚。そこから生まれる意味合い、action。ああ、こういう世界から来たよな、と久しぶりに思い出した。

個人的なメールで私宛に数通「本当に助かった」とチームからメッセージが来た。それは、データという武器を初めて手に入れて、クライアントと話しをした時の感覚と似ている。自分の声を「事実」が代弁して話してくれて、それに価値を感じる人がいた。「事実」の持つ力とそれを見極めて伝える力。今回は一切大したことじゃなかったけど、どれが欠けても伝わらない、という当たり前のことを改めて思い出した。

かつもがいたからこそ、その価値をより大きく受け止めることができた。会社にいたら、正しいと思うことを正しく伝えたら、ほぼ100%伝わった。それが拙い英語だろうが女性だろうが年下だろうが、関係なく伝わっただろう。今、それが当たり前でないからこそ、事実の持つ力をより理解し、その使い方により慎重になっている。これは会社にいたら起こらなかったラーニングだったと思うし、この状況はより忠実に世の中を再現しているんだろうな、と思う





2016年3月9日水曜日

加速。。からの期末

もう3月である。

恐ろしい。すでに期末試験を受けているのだから変態的に早い。特に後半忙しかったっていうのもあるが、授業半分課外活動半分で過ごしていたら、ここまで「あ」っという間にたどり着いていた。

いかん。

多分感覚的にはこういう感じだ。描いてみてさらに恐ろしい。。(というか、こういうことに時間を使っているからあかんのだ)最近、学んだことの反芻とか、毎日を大切に過ごすことが疎かになってる気がする。根っからの怠け癖がついに顔を出したか。。最近受験生の人と何人か話をして、彼らのきらきらオーラに触れてから自分がいかにだらっと日々を過ごしているか痛いほど感じた。

いつだって新しい気持ちで始めよう。とりあえず、今日を有意義に過ごすことから始めよう。期末が終わったら、改めてどういう風に時間を使うべきか、戦略立てる必要があるかも






2016年2月29日月曜日

盗難事件

友人が盗難にあった

しかも私の眼の前で。もう、ショッキング。友人3人とお昼ご飯をサンフランシスコで食べていた。場所はシビックセンターという、SFの中では特に治安が良いとは言えない地域ではあったが、店自体は小洒落ていてご飯も美味しいカフェっぽい店だった。一人の友人が遅れていたので、2人で先に席に座って話をしていた。すると、隣の席に黒人のおじさんが座った。

とってもにこやかで、満席だったので3人目が来たら相席してもいいかというと、笑って「もちろんだよ!」と言ってくれた。我々が日本人だと気がつくと、日本語をちょっと知っていると自慢したり、すごくフレンドリーに話をしてくれた。(そして、私は求められて握手までした)3人目も無事到着し、食事を始めると、ふっといなくなったので「あれ?」と思ったりはした

さて、席を立とうかとするときに、向かいに座っていた友人が急に慌て出す。なんと、財布がない。そんなばかな。だって、私は向かいに座って、ずっと彼女のカバンは目に入っていた。特別注意を払っていたわけではないが、盗られる隙なんてなかったはずなのに。ぜったいどこかに落ちてる。トイレを探したり、店内を探していた。

すると、すぐに彼女の携帯に電話がかかってきた。どうやら、カードで現金を引き出そうとした痕跡があるらしい。盗難確定。愕然とした。彼は彼女のカードを使って、大量に地下鉄のチケットを購入し(日本のスイカを大量チャージ購入する感じ)、カードを使ってレンタカーを借り、彼女がカードを止めるのと追いかけっこで、ひたすら数千ドルの高額購入を繰り返していた。店の人が防犯カメラを調べてくれると、我々が一瞬目を離した隙に、やはり彼がカバンを開いて財布を抜き取っていた。

カードで使われたお金は正直保険で帰ってくるし、現金が結構大量に入っていたことは確かに惜しいが、金銭的なロスは人生を左右するほどではない。なにがショックだったかって、そこに存在する悪意だった。彼は我々の隣に座ったときから、彼女(もしくは私)のお金を盗むことしか考えていなくて、その上で明るく楽しく我々と会話をしたのだ。手口が非常に慣れていることから、日々こういうことを繰り返している人なんだろう。すごい負のエネルギーに触れた気がして、気持ちが悪くなった。こんな社会の黒い部分に、普段触れることは滅多にない。

やはり、そういう国に住んでいるのだ、と認めざるを得なかった。チャンスがあるとか夢があるとかいうけど、この国にきっと一生住むのは無理だと改めて確信した。







2016年2月27日土曜日

現場マネジャーの苦悩

「クライアントを動かしたかったら、プロセスの早いうちからクライアントを巻き込まないとダメ」

ということは、教科書的に知っていて、それがいかに正しいかもいくつものプロジェクトで経験しているので、「そうしないと上手くいかない」ことは知っていた。ただ最近気がついたのは、「なぜそうなのか」ということ。

最近「これをしようと思ってる。やってくれる?」と言われたことがあった。でもこれ、明らかにだめでしょ、って思うことだったりする。これ、絶対お客さん怒るし、しかもそれ、私が自分の恥をかいてやれって言ってる?冗談でしょ!まあ結果、当然アクションに移すこともない。

じゃあそうフィードバックをして、一緒にもっといいもの、実行できるもの作ればいいじゃん、ってそうなんだけど、そういう機会はない。というか、そういう試みをしたことが何回もあったが、結局「いいからやれ」と言われる経験をしている。したがって、こういったフィードバックも上手くいかないのを知っている。上手くいかないと知っていることを、わざわざ労力割いてやることもない。

ここまで来た時、なんか圧倒的なデジャブ感。クライアントに何か実行してもらうときに、頑なに拒んだ現場マネジャーの顔が浮かんだ。「どうせ社長がするっていったらしなきゃいけないんでしょ」という、諦めに似た空気。。そうか、こういう感じか。と、初めて自分で体験した気がした。自分が実行することになっているものが、自分が正しいと信じるものになっていない、しかも、それを正す機会もない(もしくはその労力が異常に大きすぎる)。そんな状態で、いくらこちらが正しいと思うことをどんなデータで見せても、上手くいくはずなかった。結局リスクを取っているのは彼なのだから。だからこその沈黙。彼の気持ちが、今もう少し現実味を帯びて分かった


そして私はこちら側に立ったとき、その打開策があるわけではない。ただ当時マネジャーほど社長を恐れていないので、おそらく実行しないんだろうな。

2016年2月25日木曜日

実験的リーダーシップ:リーダーが取るべきでないリスクとコスト

ものすごい大衝突がありました

というか、途中からは我に返って実験的に観察した。小さいことに執拗にこだわる感情的な人に対して、正しいと思うことを論理立てて説明しようとした時に、どういう反応が返ってくるのか。

結果、「この議論は無駄だ!」と叫び、話を決して最後まで聞かず、議論を組み立てるということは一切起こらず、「なぜ分かってくれないのだ!!!」と同じ論点を怒鳴り続けるという結果になった。私の英語のせいも多少あるにしろ、それでもなかなか前職では議論の途中で叫び出す人はいなかったなあなどと懐古的に思いふけりながら、なかなか面白い経験だったと思う。この人がプロフェッショナルという観点からみてどうとか、リーダとしてどうとか、正直ちょっといらっとしたということはさておき。。こういう場面に直面した際に、どういう対応をこちらがすべきというのは、考えるに値するなと思ったので、ラーニングを書き出しておくことにする。

1)相手にこちらのInterestを誤解させない
まず出方がまずかった。相手が信じる私の興味(=なぜこういう議論を持ち出しているのか)は、私本人からみて事的外れであったのだけど、その誤解を100%解く前に議論に入ったのはまずかった。感情的である人程、懐疑心が圧倒的な負のエネルギーになることはまちがいなく、そのインパクトを過小評価したのは私に非があっただろう

2)相手にTemperを合わせない
まず感情的な相手程ボリュームが物理的にでかくなるので、それに合わせてしまいがち(途中からしまった あーと思っていた。調節した際にはもう手遅れという不手際。。)しかも感情的な人程、自分のボリュームに相乗効果でさらに興奮しがちだと改めて確認した。加えて、こちらもそのモードに引きずられることで、「自分を抑え込む」ことに80%くらいのエネルギーを使ってしまい、本来エネルギーを使うべき「問題解決」にエネルギーが十分いかないという、結構痛いミス。こういったケアレスミスは早く対処できるようにならないと、感情的な社長と話しでもする非には血で血を洗う戦いになりかねない

3)場所時間を選ぶ
これもまずかった。まず相手が最初相当いやーなムードだったことも良くなかったなと思う。こればかりはことの重大性緊急性とのトレードオフだが、避けれるリスクの一つでもある。クライアントハンドリングでは気をつけていた要素ではあるのだけど、やたら面の皮がフレンドリーなアメリカ人はそのジャッジが相当難しい。これは、経験でもうちょっと上手くなりたい

4)子どもにならない
これはどちらかというとここからのアクションかなと思う。昔の私なら「あ、じゃあいいっす。」といってすーっとフェイドアウトしたところだが、実際のビジネスでは衝突があったり気に入らないことがあるたびに辞職しては職がいくつあっても足りないだろう。相手に合わせて子どもになる必要はないし、どちらかというと実験的にあそこまで爆発した人が次の日どういうアクションを取るのかはちょっと興味がある。相手が引き続き感情的になって「解雇だ!」となっても、学生で特に失うものもないのでそれはそれで良いと思う。冷静になれば、失うものは相手の方が多いのがわかっているのもある。何もアクションを起こしてこなかったとすると、リーダーとしてはその程度(何様笑)ということなので、これはこれでいい

これらが上手くいっていたら、議論の方向は違っていたかなと、もう一度改めて考えてみる。完全には違わなかったかもしれないけど、感覚的には50%くらいの確率でもうちょっと建設的な議論にもっていけたのではないかというガッツフィーリング

一方で、自分がリーダーになるときはこういうリーダーになってはいけない、ということの再確認もできた。少なくとも、10こ自主的にやろうと思っていた事のうち、8こは「もうやんなーい」と瞬間的風速的に思った。自分がリーダーという立場になったとき、部下にはそういう判断をして欲しくないし、リーダーが感情的になったとき失うものの大きさを、自分がリーダとしてのリスクを取らずして知る事ができた。そういえば、一人とってもうまの合わなかったマネジャーは非常に感情的な人だったなと思い出す


こういった実験的環境で貴重な経験ができたことに一旦感謝しよう。ただ、これを抜きにしてもこれは来年しないな。来年もしてたらおかしくてお腹よじれちゃう

2016年2月17日水曜日

3日に1人死亡

オークランドに行ってきました。

といっても、別に旅行というほどではなくて、車で15分くらいのところ。私は車がないので、バスで30分くらい。

危ない危ないと言われている。とは言っても、人生で人並みよりはいろんな国の危ないところに住んできているので、「またまたーそんなこといってー」と。池の風景とか見ても、いや、のどか。なんなら子犬が飼い主とジョギングしています。またそうやって何も知らない日本人をびびらせようとしているんやな、と思ってた。

しかし、ふと脇道にそれると、それはそれは「危ない」匂いがする。なんというか、まず人がいない。店という店にはシャッターが下りていて、その上に毒々しい色でFUCKとか描いてある。何よりもこの素晴らしい清々しい天気のしたにあるこの異常な殺伐感。うん、これはあぶないな。と思って横に避ける

近くのカフェでなんとなくぐぐってみると、なんと治安は米国ワースト4位の街。アメリカでワースト4位って、ひょっとしてすごいんじゃないか。。。なんと、最近でも年間100件の殺人事件が起きているとか。100件って、単純計算だと3日に一人弱殺されてますよね。それってすごくない?そういえば先々週ぐらいに殺人事件あったって言ってたな。。うちはこんなところでのんきに茶などすすっていていいのだろうか。と思ってそそくさと席を離れた



中国でもインドネシアでも、最悪殺されることはなかったな、と思う。なんかそんなめちゃくちゃな場所が結構当たり前に存在して、人が住んでるってすごい世界観やな。と思う。アメリカでの学位には興味があっても、アメリカに住みたくないと思う理由の一つはここやなと思う

2016年2月11日木曜日

ファーストキャリアはトップファームが良い

ファーストキャリアはトップファームが良いと、あえて言ってみる

トップファームってなんやねんとなりそうやけど。そもそも自身は圧倒的に影響力のあった個人の影響で、盲目的に「ファーストキャリアはみんなが知っている会社じゃないとだめだ。。じゃないとその 後行きどまりになっちゃう。。。」という謎の焦りと危機感もあり、そういったキャリア選択をした。確かに履歴書の見栄えは良いし、次のステップに進む時も楽。誰かに「何をしていたのか」を説明しなくても会社の名前を言えばわかってもらえるし、相応の期待とプレッシャーがもれなく自動的についてくる。大体の場合は。


でもこの考え方、本質的にはちゃうやろな、と最近思う。いろんな企業や団体の人とやりとりをする機会が学校内外で増え、この考え方に自然と帰ってきて「やっぱりそうやで」と思うことが多い


やっぱりトップファームっていうのは余裕があって、人材に対する投資をする。それは、留学みたいな金銭的な投資はもちろんだけど、もうちょっと人ベースの投資。何かと言うと、人の時間を使ったコーチングに結局帰る。本当に細かいこと、例えばメールの書き方とかお辞儀の仕方とか(日本的だが)からに始まり、こういう状況で人に対してどういう反応をすべきか、周りのモチベーションを保つには?同意ってどうやって取っていくべきなの??。。うんぬん。少なくとも私の会社はくどいほどのトレーニングとかフィードバックがあって、当時は「はいはい。。。」とか思う時もなくはなかったが、(そして全部習得できたかはまた別問題として)、自分の考え方のベースになってるし、助かる!なんか7割引で聞いててごめんなさい!と思うことが多い。

なんでかというと、こういうスキルって社会人3年目以降だと、もう一度勉強するのめっちゃ恥ずかしい。しかも、なかなか自分でできることじゃなくて、誰かに怒られながら鍛えられながら学ぶ必要がある。そういう意味で、会社に余裕があって、そういうことにリソースを割くことに抵抗がない会社は、やっぱりファーストキャリアには理想かなと思う。

かといって、ファーストキャリアにベンチャーを選ぶ人の選択を「け」と思っているわけではない。大きい会社で学べないことを学べるし、人間的に成長できるのも間違いない。ただ、上記のことをしっかりやってくれる気概があるかどうかは、入社前に確認しても害はないだろう。


と、あまりにも社会人的におかしいメールを投げつけてくる会社、あまりにも人のコントロールがいけてない人等々と接する機会が瞬間風速的に増え、「なぜだ。。。」とフラストレーションを分解しているうちにこうなった。原因はおそらく個人や団体のもっと根本的な問題に帰結するのであってキャリア選択はその中の一つに過ぎないし(そもそもそこじゃない可能性もあるし)、受け取り側に非がないわけでもないと思うので、あくまでも考えのきっかけとして、だ。






2016年2月3日水曜日

朝はまず8個のメッセージツールを順番に点呼する

非常に機械オンチなので、こんなことを書くのは若干気がひけるのだが、まーごちゃごちゃしているよね、と言いたい。

なんの話かというと、プラットフォームである。いわゆる、メッセンジャーとかSNSとか諸々含んだ、今流行りの「ツール」が、アメリカには無数に存在する。例えば、単純なコミュニケーションツールだけ例に出すと、WhatsApp, Facebook messenger, Instagram, Slack, School Email, Google hangout, Skype, あとは電話への番号メッセージなど、冗談じゃなくこれら8個全て使っている。ついでに言うなら個人用のGmailだって使っている。なぜかというと、人と団体によってメインに使用しているプラットフォームが異なっていて、うっかりすると見落としてしまうからだ。「そっちか!!返事遅くなってごめん!!」という状況が冗談じゃなく発生している。


これは一体なんなのか。理由として考えられるのは、シリコンバレーという土地柄、新しい物を試すのが好き。。。という非常に迷惑な性格。(正直Slack使えとか言われた時、は?と聞き返してしまった。ほんと困る)もうひとつ理由として考えられるのは、日本にはアメリカで一度淘汰されたあとのサービスが入ってくるのに対して、アメリカはまさに淘汰の真っ最中という仮説。ありとあらゆるサービスが凌ぎを削って、統廃合を繰り返しているのかもしれない。あながち嘘じゃないんちゃう。とくにコミュニケーションツールという性質上、より多くの人をのっけたものが生き残るのである。


にしても、非常に迷惑な話である。個人的にはちゃっちゃと一つの会社に全部まとめてもらって、これさえみとけばKYにならない、という形にしていただきたい。

2016年2月2日火曜日

インターンシップ探し

インターンシップ探しが激化している。今クラスメートはみんな、夏のインターンシップを探すのに躍起になっている。口を開けば where are you recruiting?だからもうお祭り騒ぎだ。

お前はどうせ元の会社に帰るんだからインターンとか探さなくっていいんでしょ。と冷めた目で聞かれることがあるが、そんなことなくて、ちゃんと探している。いろんな人と話しているたびに、ローカル(アメリカ人)と戦うことがいかに難しいか、どういった戦略が必要かが良くわかってきた。戦略といっても大したことじゃなくて、ブランディングに似ている。当然やけど、ビザとか英語とか全く心配しなくていいアメリカ人じゃなくて、なんで私がいいのか、をきちんと理解してもらわないと、先には進めない。いや、口に出してみてしみじみ、本当に当然ですよね。

アメリカでできればインターンシップがしたいな、と思ってる。せっかくこっちにいるんだから、という生来の怠け癖もあるけど、今しかできないことを考えたら断然こっちやな。しかも、普段怠けてるからこそ、ちょっとチャレンジングな状況に自分を置いてみないと、溶けるように夏が過ぎてしまいそう。。


自分はあまり業界とか機能とか重要じゃなくて、誰と働くか、が大事なんだな、と最近よくわかってきた。(強いて言うなら東アジアという文言が一言でも入っていたらとっても張り切るが、アメリカの就活ではそうそうお目にかからないので一旦無視)気があうとかよりもうちょっと上のレベルの、尊敬できる人と働ける時の、お腹の中から湧き出るワクワク感が必要や。そうじゃない人と働く時の結果は、身を以て何回か経験しているからもういらんと言いたい。本当に人生の一部分を棒に振ったと思う。

とか言ってて結局日本にいるとか、そもそもインターン自体をしていない可能性だってある。ここまでわがまま言ってしまったらもうここは巡り合わせなので、仕方がない。そうなったらそれはそれで良くて、久しぶりに家族と長い時間を過ごそう。それ自体も、なかなか経験できないことに違いないんだから


2016年1月20日水曜日

マルチタスキングと戦略的デリゲーション

MBAとはマルチタスキングであるという話。

マルチタスキングなど、聞くだけで若干あたまがずんずんするくらい、前職ではできるようになれと言われ続けていたなーと思い出す。MBAでこんな形で勉強することになるとは。。。MBAとはマルチタスキングスキルを鍛えるためにあるのかと思うほど、大から小まで様々なことが、ざざざーーーっと同時に走る。これがマルチタスキングなのだと気付いたのは結構最近だったけど。

ステークホルダーが違うということ、そこそこのFTEを取られるという意味で、今思い当たるだけで4つのチャンクを抱えてた。もちろん、これ以外にも細々とした色々に時間をとられてはいるんやけど

1. アジアカンファレンス企画運営
2. クラブ運営
3. ネットワーキング/インターンシップ
4. 授業/ グループプロジェクト

それぞれは、結構ちゃんとやろうと思ったらかなり労力を必要として、あと無駄にステークホルダーが多い。実際の時間の使い方では1・3が瞬間風速的にでかくて、2がじわじわ来ていて、4はコンスタントにそこそこ存在している。4. 授業にもっとちゃんと時間使えよ、と今自分に突っ込んでしまったが。。きちんと使ってます。それぞれの授業にグループプロジェクト・課題・試験があるから、4の中にはそこそこの大きさのサブカテゴリとして常に4-5こ走っている。


とか考えると、結構忙しいんよなあ。同時にいろんなものが爆発した時、たまに「今何するんやったっけか」となってしまうこともある。でもそこで良くも悪くも学んだのは、「信じて任せる勇気」だった。昔の自分は、任せた時にちゃんとうまく回るかどうかめちゃくちゃ心配して、すっげーハンズオンで、鬱陶しいくらいフォローアップして、しかも最後には結局引き取る(!)という今思うに自分から死にに行く上に人から嫌われるパターンの人だった気がする。最近はこれではどう考えても物理的に回らないので、どこに自分が出るのが必要で、どこまでコミュニケーションすれば80%の確率で転ばないで、どこまでのクオリティにすればとりあえず凌げるかを無意識に考えている気がする。といったことを急に「!』と思ったけど、それって結構大事やなと思ったから書き残しておくことにした。


実際は人は自分が思っているよりよっぽど優秀で、それぞれに強いところとか弱いところがあって、任せちゃっても結構うまくいく・・・っていうことを、本当の意味で理解し始めたのは結構最近かも。


もちろん、丸投げと戦略的デリゲーションは意味がちがうので、そこの見極めは責任を持ってやって、合意を得る必要があるのだけど。しかも、見積もりを誤って派手に転ぶこともやはりまだあるので、そこは勉強のしがいがあるかもな。












2016年1月17日日曜日

シアトルにて

シアトルにやってきた。モントリオール時代の親友が、結婚してシアトルに住んでいたので是非一度会いたいなーとか言ってたら実現してしまった。

シアトルっていい。日本と同じくらい安全で、歩いていても全然怖くならない。ご飯も安くて、アジア料理もいっぱいあるし、住んでも困らなさそうだなと思った。ものすごく雨が降ることを除いては。

にしても、やっぱり自分を違う環境において見るのはとってもいい。特に最近いろんなことが重なってうぎゃーってなっていたが、一歩引くと全然大したことじゃないことに気がつく。一人旅行で悟りを開いちゃうひとが多いのはなんだか納得がいく。「ながら考え」じゃなくて「考え」がちゃんとできるんやろうな。


例えばぼけーっと電車に乗っていて、突然将来に関してひらめいてしまう。「もしかして、そういうこと・・・?」みたいな、謎のアハ体験。以前よりもちょっと前に進めた気がする。うぎゃーってなってたことも、「まあ最悪転んでもここまでやな」みたいな「にやり」感覚が生まれた。

古い友達に会うのはいい。古くなっていた記憶をよっこらしょと持ち出してくる感覚で、わいきゃいいいながら話をするのは楽しくて、またどんだけ時間が経ったのかも感じることができる。

そういう友達が世界中にいるのはやっぱりええな。

スノーシューイングなる新しい遊びも教えていただいた。思ってたよりハードコアやったから、ジーンズで来たら鼻で笑われてスキーウェアを貸してくれた

2016年1月12日火曜日

新年の目標:とりあえず4月までは

そうして新学期が新年とともにはじまろうとしてる。いや、マジもう早すぎて気持ちがついていきません。

毎回今年の目標を立ててはいるものの、4月くらいにはきっと忘れている。ただ裏を返せば4月まではその効果が持続するということなので、懲りずにここに残しておこうと考えている。うむ日記ってそういうもんやろう


1.英語の本を毎月1冊以上完読する
これが思った以上に難しい。日本では週末だけで2冊くらい完読していた。自称速読の名人だったのに、こっちに来てからそれがさっぱり難しい。言語の壁はあると思う。日本語でできたざざーーーっと読むということができない。しかも、ざざーっと読めないとなんだかめんどくさくなって、読書からそもそも遠ざかった。思い返せば以前は読書は程よい現実逃避を与えてくれて、カフェなんかにこもって黙々と本を読むのが何よりのストレス発散方法だった(そして瞬きの数が減りすぎてカフェを去る時にはいつも目がめっちゃ乾いていた)。中国でストレスが溜まって辛かった時も、日本から5-6冊本を持って行って、ひたすらカフェにこもって読んでたっけ。。引っ越す時もいつの間にか本が家に数百冊溜まっていて、処分した時に思いも寄らず結構なお金になったよな。。ということで、アメリカでもこれを趣味・自己救済手段としてとして成立させるため、まずは速読力を身につけることにしよう

2.自分が心地よくない人と、最低一日ひとり話す
これも難しい。生来シャイな上に、忙しい、めんどくさいというこれも生来の怠け癖のせいで、あまり親しくない人と話すことに対する心の壁が厚い(こっち側の)。それって結構もったいなくて、めったに会えない人口集団の中に放り投げられているので、積極的にあちこちつんつんすべきである。グループの中にどかーんと入るのはやはり気がひけるので、まずは個々人にストーカのごとくアプローチすることにしよう。肝は「めげない」こと。ちゃんと「長く話す」こと。そんな調子なので、きっと邪険にされる時もあるし、こいつとは一生話さねえとなるほど嫌な奴な可能性もある。これは筋トレと一緒なので、自然に声がかけれるようになるまで、頑張ってみよう


3.怒りを顕にする回数を1/3に減らす
これに至ってはほぼ不可能な気がするが、4月くらいにどうせ忘れるなら志高く行こう。生来気性が激しく、かつ正義感(こっち定義の)が強いので、結構むきーーっとなってる時が多い。気がする。しかも「それって正しくないやろ!」という感情からくるストレス半端ない。「いやいや、完璧な人なんていないんやし、この人も頑張ってるんだよー」「こういう人が必要な組織だってあるんだよー」「怒っても誰得だよーまずはお前が大人になれよー」という横流しのかわし技術をもっと身につけて、かつかわしきれなかった怒りは少なくとも「表に出さない」という方法を習得しよう

繰り返すがおそらく4月には「目標なにそれ」になっている可能性が高いので、4月になったらもう一回見直してみよう。今年も頑張るぞ



2016年1月4日月曜日

マイアミでの新年

新年はマイアミの空港のレンタカーカウンターで、「オープンカーなんて絶対盗難に会うから嫌や!」と騒いでいるうちに迎えました。2015年は中国で半年過ごし、アメリカでほぼ半年過ごし、気がつけば日本には一ヶ月ちょっとしかいなかったような。自分にとっての優先順位が以前よりはっきりして、それでよいのだ、と確認できた一年でした。今年は、びびりの自分をほどほどにプッシュしながら、将来のことを真剣に考える年にします。

さてさて、マイアミやけども、南って言ってもアメリカやから、冬やったらそこそこ寒いかなーと思ったけど、全然夏。ジリジリ照りつける太陽に、程よい湿気で異常に快適。色々、ほんと色々ハプニングはあったけど、それも旅行の楽しみの一部と自分に言い聞かせる。

にしてもここはアメリカかと疑いたくなる。どちらかというと以前訪ねたインドネシアに雰囲気は近いかもなあ。しげるヤシの木に、かっ色の肌の人々、道に流れるトロピカルなあまーい香り。
物価もサンフランシスコほど高くないし、ここは外国(米国外)と言われてもそうかーとなってしまいそうや。


非日常感という意味では最高やけど、ただ住むとなったらちょっと厳しいかも。ゴキブリ大きそう