2017年2月28日火曜日

日本人として英語を話すということ

「君は、大部分のアメリカ人よりまともな英語を話すんだから」

もちろん、言語的に、という意味ではなく。そんなことを言ってもらった時に、ふと英語に関して考えたという話である。Art of Coachingという授業で、お互いにコーチングをする練習があるんだが、私がCoachしてもらうトピックとして選んだのは「Socializing skill」だった。以前カナダに留学した時より、よっぽどマシになったとは感じるんだけど、やっぱりアメリカ人の中に一人飛び込むのはちくっとする程度のストレスがある。それがなんなんだろう、と突き詰めて考えた時に、やっぱり英語なのかなあと思わざるを得なかった。

みんなが何を言ってるか分からなくて・・・うぎゃーという時期は、多分大方越えた(たまにあるけど)。じゃあなんで英語なんだというと、母国語だといらない少しの「めんどくささ」が自分を会話の中に放り込むのを少し億劫にする。また、相手も同じくらいの「めんどくささ」を感じているんだろうなあ・・という推測が、その億劫をもう少し強くする。Coachingをしてくれた彼の言葉を借りれば、extrapolate (自分もこうだから、多分相手もこうだろう)しているんだろうと思う。

みたいな話をしていると、彼は「ここ(UC Berkeley)にいるということは、君は大部分のアメリカ人よりまともな英語をはなすんだから」と指摘した。本当に会話を少し億劫にしているのは、英語だろうかと、聞いてきた。結局私の場合、むしろ「完璧主義」のせいなんじゃないか、という仮説に二人でたどり着いた。間違えたくない、無理させたくない、バカだと思われたくない・・みたいな自分で作り出したプレッシャーのせいじゃないかと。


結局、会話で大切なのはそこ(英語)じゃなくて、彼の言う通りその外側にあるんだろうなあ。そしてその外側には、誰かと会話を持つに価する何かを持っているはずなのに、いつもどこかで自分に価値がないと思ってしまう。たかだか20分のCoachingだったけど、色々自分について考える機会をもらった気がした。さすがやなあと思う。

2017年2月17日金曜日

バークレーで考える言論の自由

最近、あんまり柄にもなく言論の自由に関してよく考える。
 
私の通った京都大学は日本の学生運動の中心地でもあり、言論の自由。。というか自由に非常に敏感だった。デモも多かったし、何か起こる度に張り紙が貼られたりスピーチが起こったり(時に人が半裸で走り回ったり)、正直ちょっと怖かったからなるべく関わらないようにしていたけど、全体としてそう言った校風は嫌いじゃなかった。
 
バークレーは、そんな京都大学と似ているなと思ったのが最初の印象だった。学校選びをしている時、なんかこのごちゃっとした感じがそもそもちょっと似ていると思ったのと(多分公立故の資金不足?)、バークレーも昔学生運動の中心地だったからか、自由と自治に関して非常に敏感な学校だった。よく使う言葉を使ってしまうとフィットということになるんだけど、多分そういうものを感じた、のかもしれない。
 
そんな学校での生活は、事実そう言った側面を実感することが多い。特に新しい大統領が選ばれた後、学校は大変賑やかだ。デモやスピーチ等々、様々な形で、みんな自分の信じることを成し遂げようとしている。そういう校風がやっぱり誇らしいし、なんだか少し自分の学部生時代が懐かしかった。
 
ただ一方で、言論の自由とはなんだろうと考える。確かに デモやスピーチは言論の自由の形の一つではあるんだけど。例えば「あの人、トランプサポーターらしい」みたいな囁きをたまに学内で聞くことがある。例えば少しでも皆が信じるものと「ずれる」コメントをして、一斉に総叩きに合っている人を見る。人々が成し遂げようとしていることに私は賛成しているはずなのに、そう言った風潮に若干今までと同じだけの「同感」ができない私は、ちょっとおかしいのかな。
 
違うものを信じる人もいるかもしれないし、信じるものが同じでもその程度が違う人もいるかもしれない。その人々が声を出すのをためらう雰囲気がやっぱりある。かくいう私も、こんなもやもやを学内で議論できる(心の)準備はあんまりない。それが曲がりにも言論の自由の結果故なら、少し皮肉かもしれないと思ってしまう。

2017年2月16日木曜日

Authenticity 自分らしくあることの難しさ

Authenticityという言葉はこちらで覚えた。

特にリーダーシップ論とか、今とっているコーチングの授業でよく出てくる言葉だ。言葉通りには「自分らしくあること」。

これが、言葉以上に難しい。なぜなら、実際のビジネスではいかに自分を「自信があるように見せるか」「プロフェッショナルに見せるか」を叩き込まれてきた。それは、必要性を理解してはいたものの、私には何か自分に嘘をついているような感覚を覚えさせた。「自信は無いけど、自信あるように振舞わなければいけない」「まだまだヒヨコだけど、プロとして振舞わなければいけない」というプレッシャーとの戦い。。そんな中で、Authenticityがリーダーとして重要だなどと言われれば大混乱である。どうしてほしいねんと。

ただ、この概念はもう一層意味合いが深くて、いろんな要素に分けられる。その中で特に重要であるのが、Consistantであること。以前仕事をした中で、「この人絶対二重人格」という人が結構いた。プライベートと仕事のモードが明らかに違うというか別人で、もはやその使い分けができることを誇りに思っていた。しかも、社風としてそれを誇りに思っている節が否定できないことがあった。メリハリ、と呼ぶらしい。私はというと、すげーいつか自分もちゃんと仕事人格ができればいいなと思っていた一方で、そういった二重人格の人はちょっと苦手だった。腹の中で何を考えているのかわからないとでも言おうか。

そんな中、AuthenticityはConsistantでないといけないのだ、というハーバードの論文は、ちょっと納得感があった。全てをさらけ出す必要はないし、どの部分の自分を出すかはその都度選べばいい。でも、自分が信じることには自分もコミットするし、部下から「この人Authenticだな」と思ってもらえないと、自分の本当のフォロワーは絶対にできない。自分のフォロワーがいない人は、本当の意味でのリーダーにはならない。

本当の自分を誰に、いつ、どこまで出すのかが本当に学ぶべきスキルであり、それは「仕事人格の構築」とは一線を画す。また、このAuthenticityのコントロールは生まれつきではなくて、学べるものらしい。自分を良く知ること、他人を良く知ること、他人を知ることで、どの部分の本当の自分が、その人と繋がれるかを導き出すこと。どう考えても一朝一夕でできなさそうだが、久しぶりにほほーと思ったので記録しておくことにした。






2017年2月8日水曜日

MBAが無駄かどうか

「MBAの授業、全然楽しくなかったんだよね」

という言葉に、一瞬「は。。」と言葉に詰まったのは言うまでもなく。

そもそも、MBAになんで行こうと思ったのか、そもそも行く意味ないんじゃないのか。みたいな質問は他人からもされるし自分でもたくさんする。そして、その都度自分なりに納得したり、苦悩したりする。


学びが多いのは、間違いない。行く意味あるのか、というと、絶対そう。でも、じゃあ何を学んだんですか、と言われると、一瞬考えてしまう。これは、行った人にしかわからない感覚かもしれない。そんな中、「MBAの授業が苦痛だった。パーティとかネットワーキングとか大嫌いだったし、授業の内容も実戦で使える実感がなかった」と言ったのは、MBA後世界で一番大きい戦略コンサルティングファームのベイエリアオフィスで働き、その後マネジャーに昇進した日本人の方だった。でも彼は MBAに来たことを後悔しているのではなく、来た意味は絶対にあった、と付け加えた。自分に関して、とてもよく知ることができた、と。

そもそもMBAに行ったことがない人や、日本の外で腰を据えて働いたことがない(もしくは働く気もない)人がMBAを否定するたびに「はいはい」と思って聞き流していた一方で、彼の言葉は、すっと胸に入ってきた。

MBAで「これができるようになった」というのは、難しい。もちろんそういう人もいるのかもしれないけど(会計とか、金融とか??でもこれ、明日から使えるイメージはあんまり湧かなかった)、どちらかというと「気づき」の部分が大きい。自分は、何に対して憤りを感じるのか、どういう価値を出したいのか、何を怖いと思うのか、何に対して偏見を持っているのか・・ たまに目を瞑ってしまいたい自分のあんまり綺麗じゃない部分に、何度も、何度も目を向けることを強要される。たまにしつこくてイライラするし、なんでもかんでも議論しなくていいやんみたいな反発心を持つこともあるが、でもその中で、前よりももっと自分について知ることができる。


苦しんで、海外に残って成功した人の言葉だから、今までで一番納得感があった。かつ、なんとなく「これでいいのか??」と思っていたMBAの総括に、「それでいいんだよ」と言ってもらった気がした。